「日常の聖性」(未完)の序文より

下記の文章は或るサイトに投稿したものである。

で、或る人物からコメントがあった。その遣り取りが最後の方に記載されている。

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「日常の聖性」(未完)の序文より


我々が何気なく観ているものの中には優れた芸術作品に匹敵するようなもの、光景が満ち溢れている。

日常の中に観ようと思えば誰でも見えるものであるが。
だが、最も観ることが難しいのは自分自身の内面であろう。


自分自身の言葉も自分が感受したものを自分の言葉に翻訳する。
その時に自分の意識状態、世界観等が土台となる。
だが、土台自体が既知のあらゆる著作から情報知としての継ぎ接ぎであるとすれば単なる知識のオリンピックとなる。
この傾向は哲学を学んでいる人物に多く見られる。(哲学に限らぬが、、)

下記の応答文は或るサイトでの遣り取りである。
如何に考察の観点がずれているかが分かる。


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此処に掲載した文章は「日常の聖性」(未完)の序文である。

 すでにこの序文に答えは含まれている。無論、ただ、これだけでは分かるものしか分からぬ、ということになろう。

 だが、このような内容は何時でも日々の日常の基本中の基本と思われる。

 今日のみならず今後も精神世界等の混濁混乱錯綜した情報が氾濫猛威を奮うであろうから敢えて掲載する。

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 我々人間にとって、この「私」という個体存在は私にとって最も近く最も遠い存在でもあり、「私自身」の真の自己認識こそが古今より困難な認識対象として今日に於いても依然として深遠な謎の如き存在対象として存在している。

 「汝自身を知れ」というソクラテスの言葉があるが、この言葉は今日でも我々にとって未だ、謎のまま思考停止され難破状態である。
「私自身とは何か?」いう最も基本的、根源的問い自体が真摯に探求されぬまま看過され続けられているのは我々人間存在にとって誠に由々しき深刻な問題である。

 特に近代以降の自然科学的世界観を基点とした唯物論的考察は「私」を単なる考える動物とか精巧に出来ている生きた機械のように看做すか、精神と肉体とを異なるものとして分けて考える二元論的考察が殆どである。
さらには超越的存在としての神や仏を創り出して全てを統合する世界観もある。

 本来、私の中には聖なるものが種子として宿っている。ただ此の感覚界・物質界という世界で肉体・個体として生存している為にその聖性を見出す事が困難になっている。
古来よりこの真の「私」に至る道はあらゆる手段を用いて表現、語られてきた。
 だが、今日のような自然科学に依拠し、基点とした思考による考察では「聖なる私」へと至ることは不可能に近いのである。ましてや心魂的問題に関してはさらに困難である。
かといって聖なる私に至る事が不可能ということではない。

 「私」の中には誰でも健全で正しい思考もあれば健全な感情というものもある。
 その方法は地道なものであり、不屈の意志を必要とする。誰でも直ぐに実現出来るというものではない。
しかし、一歩一歩確実に歩むことによって「聖なる私」に誰でも至ることは可能なのである。
 「聖なる私」とは様々な言い方がある。要するに普遍性にまで高まった、至った自己意識の「私・自我」である。真我、真人、高次の自我、神的自我、霊我、等々。
無論、この意識状態においても様々な諸段階がある。

 私の魂の中にある「聖なる種子」をこの感覚界の生活において如何に育成するか、これが我々人間の生存の問いでもあり目的でもある。
さらに言えば我々人間存在が地球に生存する課題としての「魂の進化」とも言える。

このような物言いに対する反論異論は特に哲学を学んでいる人物や哲学者、自称霊能者と称する人物から激しい怒りに満ちた攻撃を受ける事は百も二百も承知している。
誰でも自分自身が依拠する土台が消失するのは不快だからである。あらゆる視点観点、世界観自体も相対化し得るからである。

2010年06月21日

私の上記記事に対するA氏のコメント

聖なるものに対する探究はオットー、デュルケーム、エリアーデ、バタイユなどの各分野の思想家がとてもおもしろく追求していますよ。
日本でいうなら柳田国男とか。

既知でしたら失礼。
あとあなたのいう魂の進化ってドゥルーズやガタリのいうリゾームっていうテクニカルタームにつながりそうですね。

わたしは哲学を学んでいるものですが激しい怒りめいた反論はまったくでてきませんでした。
ただ、なんというか、どれも現代思想の場で既出の概念なので、なにひとつといって目を惹かれ、ものを考える手がかりにはならなかったのがややざんねんでした。


私の返答

Aさん、コメントありがとうございます。

仰りたい事はよくわかります。
特に目新しいことではありませんから。
ただ、私は自分自身の実体験からなるべく誰でも分かるような言葉・概念に変換するように日々実践、生きてきましたから。

通常の感覚的知覚による概念では説明し難いものです。
バタイユやニーチェ的内的体験は私の裡で日常化、血肉化されております。
あの彼らの地点、意識状態では誰でも足場を失い魂は難破するでしょう。
また、彼らを知るという事は同等の或いは似た内的体験を日常の中で透徹した意識にてしかと咀嚼、血肉化せねばただ観念的思考にて空転するだけです。

生きながらの死、は絵空事ではないのです。
これも当人が実体験せぬ限りはぴんとこないと思います。


A氏の返答

ちょうどぼくも日記に聖性について書こうとおもってたんで、やや気負ったコメントしてしまい。
バタイユもニーチェもやはりご存知でしたか。
お言葉に甘えてまた顔だしてみます。


私の返答

丁寧なコメントありがとうございます。
ただ、私は書物を通してではなく日常生活を通しての自覚なので表現者・著者の魂の内側から共感融合し理解します。

近代以降は個人の受難劇が中心で、またそれが真の自己認識のスタート地点でもある、と。

今日でも本当に彼らの内面を直に実体験している人物は殆どいないと言っても過言ではありません。
心情レベルでの共感や情報的知に於ける考察の域を出てはいません。
むしろ核心に触れているのは小林秀雄位です。

彼もまた心情的な立ち位置に自分自身を縛りつけましたが。


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これ以上のコメントはA氏からは来なかった。

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