創造と個性
表現行為に於いては個性云々が様々な視点観点から語られる。
この問題と自由、不自由という問いは不可分である。
唯物論的観点からはこの問いは徹底的に相対化されれば無意味な問いと化す。
世界、自然界を知覚する主体である「私」が消滅すれば一切は無に等しいという結論に導かれるからである。
さらに謂えば生存自体にも意味は無いという結論へと至る。
これは通常無常観とか空とか言われている概念である。
この観点からすれば、個人の一生など自然界の一部にすぎないし、この自然界の法則からは何人といえども逃れ得ない、
故に個性なるもの、個人の自由などというものは存しない、と断定するに至る。
この観点からは厳密には創造という概念も我々人間存在も被造物存在である限り不自由であり空想妄想の類に過ぎない、という事になる。
あるとしてもせいぜい「限定付きの選択の自由がある」のみであるという浅薄な閉じた世界観、人生観となる。
この観点に呪縛されている限りは創造という概念も自由という概念も空想妄想、個人の主観の範疇を脱し得ない。
偏見無く観る一視点にすぎぬ相対的視点が世界観と化せば内実を伴わぬ皮相な虚無的考察しか出来得ぬのは当然である。
一考察、思考形態でしかない視点を個人の世界観の基点に据えれば一切は空しいのも止むを得ぬのだが、そこで導きだされるのが「所詮は我々も動物にすぎぬ」という考えである。
かかる物神思想が今日、多くの自我・魂を侵食している。所謂、方向性の喪失、意志の喪失である。
また、これは弱肉強食の原理が最も強く作動する意識状態である。
この地点での論議は平行線を辿る。
本来の問いは此処からが真のスタート地点でもあるのだが。
表現が抽象化へと向かった地点でもある。
一切の価値転換とは公正に、偏見無く事物、私を世界との関係を捉える一視点なのである。
この視点自体が個人の意識全体に浸透する事、これが日常の意識にならぬ限りは一歩も先には進めない。
自然界との融合親和という諸経験、体験を体得して初めて語りうる事、表現しうる事がある。
この意識状態に於いては個性云々、自由不自由云々等大した問いではない。
自らも一素材であり、世のあらゆる素材を如何に生かせるか、という問い自体が問題となる。
自己認識と世界認識とは不可分であり、密に連動しているという事が自覚されるからである。後はその行為自体の貫徹のみである。
自明だが此処では一切の境界も消失する。
足場無き足場に於いて透明で明晰な自己意識のみが自己を制御する。これは各自がしかと体得自覚するしかない。