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三島由紀夫と川端康成


三島由紀夫と川端康成


「豊饒の海」終章――天人五衰

「暁の寺」の完成によつて、それまで浮遊してゐた二種の現実は確定せられ、一つの作品世界が完結し閉ぢられると共に、それまでの作品外の現実はすべてこの瞬間に紙屑になつたのである。私は本当のところ、それを紙屑にしたくなかつた。それは私にとつての貴重な現実であり人生であつた筈だ。しかしこの第三巻に携はつてゐた一年八ヶ月は、小休止と共に、二種の現実の対立・緊張の関係を失ひ、一方は作品に、一方は紙屑になつたのだつた。
— 三島由紀夫「小説とは何か 十一」

人間の生命というのは不思議なもので、自分のためだけに生きて、自分のためだけに死ぬというほど人間は強くないんです。というのは、人間はなにか理想なり、なにかのためということを考えているので、生きるのも自分のためだけに生きることにはすぐに飽きてしまう。すると死ぬのも何かのためということが必ず出てくる。それが昔いわれた大義というものです。
そして大義のために死ぬということが人間の最も華々しい、あるいは英雄的な、あるいは立派な死に方だと考えられた。しかし、今は大義がない。これは民主主義の政治形態というものは大義なんてものがいらない政治形態ですから当然なんですが、それでも心の中に自分を超える価値が認められなければ、生きていることすら無意味になるというような心理状態がないわけではない。
— 三島由紀夫「NHKテレビのインタビュー『宗教の時間』、1966

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三島由紀夫は川端康成の事を的確に評した言葉「永遠の旅人」と。

虚無空間という球体から脱し得なかった、脱しようともしなかった川端康成に三島由紀夫は苛立ちを隠せなかった。
だが、三島由紀夫自身も同じ球体から脱する事は出来得なかった。

近代以降の個人の「受難劇」を体現した三島由紀夫は、己自身を依拠するものを自分を育てた民族に据えた。
――彼の「理想」は紙屑同然、白紙となった……

彼の至った世界観、その悲劇は今日でも続いている。
唯一、小林秀雄のみがその先を示唆したが誰からも理解されなかった。

虚無的世界観を打破する事がわれわれ人間の課題である。
しかし、この物言いは殆どの人々の耳には届かない。

如何ともし難い状況である。

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