凄い道徳的だよね。
今回は結構マジメだよ。
6/14の日記
梅おにぎりって、
「凄い道徳的だよね。」
今日、とある友達に言われた言葉。
皆さんは、道徳的と言われて嬉しいですか?
私は今日こんな言葉をかけられて、正直ムカついてしまいました。
本来であれば嬉しいはずのこの言葉に、なぜ自分がムカついてしまったのか、私もよく分かっていません。
なので今回は、自分自身がどうして道徳的と言われたことにムカついたのか、自分なりに考えてみようと思います。
まずは道徳とは何なのか、インターネットで調べてみました。
《道徳》
人々が、善悪をわきまえて正しい行為をなすために、守り従わねばならない規範の総体。外面的・物理的強制を伴う法律と異なり、自発的に正しい行為へと促す内面的原理として働く。
これはweblio辞書に載っていた道徳の意味です。
本当は老子の教えがああだとかこうだとか、そんなことも配慮した方が良いのかもしれませんが、私には難しいので飛ばします。
これを踏まえ、少し穿った見方をすれば、他人に道徳的であると言われるのは、世の中で正しいとされている通り、自ら従う忠犬であると認識されている、と捉えることが出来ます。
ではなぜ私は、このように他人に認識されるのが嫌だと感じてしまうのか。
その理由の一つは、私が根本的に、
誰かのために生きているわけではない
と思っているからです。
私は基本的に、世の中で正しいとされていることの基準は、人間関係を営む上で現代の社会が破綻しないことだと考えています。つまり道徳的であることは、他人も自分も含めて、社会を上手くやっていくための規範を自ら忠実に守ることである、と言えます。
確かに私は、
社会の常軌を逸した行動を別段するわけでもないですし
困っている人がいたら、すぐに積極的に助けたいと考えます。
周りの人の気持ちを考えて、尋常じゃないほど気を遣うことも多いです。
しかしこれは、
全くもって周りのためでも社会のためでもありません。
敢えて強い言い方をしてしまえば、
私は自分が生きる環境を生きやすくするために、社会の規範に沿って生きなければという不安が常にありますし、
自分が、困っている人を助けることが出来ない奴だと、自分で認めたくないから困っている人を助けているに過ぎないと思うんです。
周りの人の気持ちを考えて気を遣うのも、自分が愛情を持っている人に嫌われたくないし、人間関係が悪くなって自分が苦労しないようにするためです。
つまり、すべて自分のためにやっていることなんです。
だからこそ、
自分自身のことを周りに良い意味で、道徳的だね、と言われると
この社会に積極的に迎合することを強制されている
というように感じてしまうんです。
まあ、10割被害妄想ではありますが。
さらに私はそもそも、周りに迎合しやすい性質を持っているので、
そのことがコンプレックスになっています。
そのため、道徳的であると言われることは、そのコンプレックスから脱しようとしている自分に対して、
お前は結局自分の強い意志や芯を持って貫こうとしているわけでもなければ、何か変革できるような人間でもない(当たり前ですが)
ということを突き付けられているように感じてしまったんです。
長々と話してしまいましたが、結局はこんなことも、自分自身にぶれない芯があれば、気にしなくてよい話です。
これはあくまで私の個人的な意見なので、優しい目で見ていただけると有難いです。
宜しくお願いします。
今日も最後まで読んでいただき有難うございます。
少し重い記事になってしまいました。
ごめんなさい🙇🙇