『人間の教科書』 スピ的・容姿コンプレックス解消術【読むだけで即解消】
(※この記事を読むと劣等感が解消する上、新しい自分を発見します)
容姿に対する劣等感を持ったことはありますか? 何を隠そう、ぼくは結構ある方です。
というわけで今日は、容姿コンプレックスの解消方法を紹介します。
しかも他ではあまり聞かない(気がする)スピリチュアル的な方法です。
ぼくは、もういい大人なので、思春期と同様の劣等感意識からは卒業しています。かといって、ゼロになったかというとそうでもない。
「あんなハンサムだったら楽しいかろう」なんて思うことは正直あります。
①自信につながる能力を伸ばす
②劣等感をバネにする
③工夫する(化粧とかファッションとか話術とか)
④自己肯定感を高める
一般的には、このような方法が劣等感解消術としてメジャーでしょうか。
これで解消できるなら、それはそれで全然いいと思います。
でも①②③の方法だと、どこまで能力を伸ばしたり、工夫をしても、
「上には上がいる。あの人の方が優れてる! それに比べて自分なんて~」
という場合もあるでしょう。所詮、対症療法的ではあるので。
もちろん努力や時間や費用がかかったりします。
そして、ここから抜け出せないと整形中毒になって最後は悲劇に、みたいなことにもなりかねません。
では、どうすればよいのか? ここから本題に入ります。
まず自画像を描いてみてください。
頭の中で思い描くだけでもいいです。
はい、描きましたか?
そしたら、その自画像に対していくつか感想を述べてみてください。
「もっと鼻が高ければなー」
「体型がスマートだったら」
「それでも目は結構、気に入っている」
色々あると思います。
では、なぜここで、ぼくは「自画像を描いてください」と言ったのか。
この自画像には、あなた自身がどこに自己同一性を持っているかが表れています。
それをまず確認してもらうためでした。
自己同一性とは「これが自分だと定義している部分」です。
ほとんどの人は「相手から見た自分の姿」「写真に撮られたときに映ってる自分の外見」そういうものこそが当然自画像であり、自己同一性が置かれるべき場所だと何の疑問もなく認識しているのではないでしょうか。
だからこそ、自分の容姿が世の指標などに照らし合わせてみてイマイチな場合、コンプレックスを抱く根拠になってきます。
でも、この態度は本当に妥当なのでしょうか?
つまり僕たちが自己同一性を抱いている位置は妥当なのか?
これまでの記事を読んでくださっている方には通じやすいと思うのですが、
僕は今や「本来的自己」の位置が、この自分自身の肉体が主体であるとはあまり思わなくなっています。
つまり自分の主体部とは「魂そのもの」であって「この肉体は今世で縁あって乗り込み、お世話になっている器」なのだ、という意識が強いのです。
例えるなら入居者とアパートの関係、あるいはジョッキーと馬の関係です。
なので僕がもし「自画像を書いてみて」と言われたら、
「自画像か…うーん、どうしよう」と少し逡巡した挙げ句、
こんな絵を自画像として描きそうな感じがあります(いやマジでw)。
(これは自室にいる自分の主観的視野をそのまま描いたイメージ。この見え姿こそが自分でしょ、主観的視野こそが自分でしょ、みたいな感じ)
もちろん「この肉体は自分じゃない」とまで言い張るつもりはないです。
長年この肉体として生きて成長してきているので「これは自分じゃない」と言いきったら、それはそれで違和感がありますよね。
だからといって「この外見が自分です」と客観的な肉体の見え姿に限定して言い張るのも正直にいえば、今や違和感があるのです。
なぜかといえば「これも自分と言えば自分だけど、でもこれだけが自分ってわけでもないしなー」という感じといいますか。
こういう自分が「魂」と「三次元的肉体」の双子的な二重の自己として生きている感覚をバイスペイシアル感覚と呼ぶそうです。
多分、ここまでの話だけで「あー分かる」ってなってる方は多くないでしょうから、もう少し丁寧に説明させてください。
操作が複雑な格闘ゲームをやった場面を思い出してください。
特にコマンド入力するタイプの格闘ゲームって最初、ぜんぜん必殺技が出せませんよね。
何度「→↘↑+キック」って操作しても竜巻旋風脚が出せねーみたいな。
でも何度も練習して、そのうち慣れてくると自分の体のようにそのキャラを操縦できるようになります。
竜巻旋風脚も自由自在に出し放題です。
相手と白熱の勝負をするとき、ぼくらは自分がリュウになりきっています。
だからといって、ひとたび勝利すれば、自分が「リュウ」というキャラ自身ではないことは当然ですが我に返って思い出します。
では次に、赤ん坊のとき、あなた自身が、どのように歩行を獲得したかを思い出してみてください。
赤ん坊は最初まったく歩けません。
自分の足であるはずなのに、まったく自在に操れないのです。
自分の身体なのに、自分で操れないなんて赤ん坊って不思議だな―なんて大人はのんきに思ったりします。
一方、赤ん坊は無限の反復練習を経て、ついに歩行をマスターします。
なるほど、
こういうふうに意識して操れば歩けるのか、
と理解します。
歩けるようになると、子供はそれが嬉しくてむやみに歩き回ります。
このときこそ
赤ん坊の意識と、
これまで全く操れなかった身体が、
生まれて初めて人馬一体となるのです。
もし赤ん坊が、
自分の肉体に自己同一性を
初めて発見する瞬間があるなら、
それは、まさにこのときなのではないですか?
そして、これらは何かに似ています。
そうです。
ぼくらが格闘ゲームで竜巻旋風脚をマスターする過程と同じです。
あるいは近頃だと脳波で操るクレーンゲームなんてものがありますが、これを自由に操れるようになる営みと同じです。
異なるのは、ぼくらが格闘ゲームをするとき、自身がリュウでないことは勝敗が決したときに、はたと我に返って気づかされますが、
一方かつて赤ん坊だったぼくら自身は
「自分という肉体を脳波で操るゲーム」
これをマスターしたのが昔のことすぎて、
「自分の意識」と「操られる肉体」が完全に同一視されたままです。
つまり「あ、俺はリュウじゃなかったわ」と我に返る瞬間をもう完全に見失ってしまっているのです。
本当は「意識」と「肉体」は最初から人馬一体ではなかった、
ずばり「肉体」は必ずしも言うことを聞かない他者だったのに、です。
今は馬術を完全習得したので馬が手足、自分同然になっているだけです。
厳密に言えば、自分の肉体とは、自分の双子的なパートナーなのです。
はい、では僕が僕自身、僕そのものだと思ってきた、その肉体は、実は僕という意識を乗せてくれているお馬さんでした。
あなたは一度でも「あ、やべ。心臓を動かし忘れてた」って思いましたか?
僕は思ったことないです。なぜでしょう?
お馬さんがお馬さんの意思として心臓を動かしてくれているからです。
なのに、僕らはお馬さんが動かしてくれているなんて忘れています。
心臓が勝手に動くのは当たり前、
自分が歩こうと思えば足がうまく動く、だから歩けるなんてことは、もう当たり前で、
勿論それらはぜんぶ自分がやっていることだと思っているのです。
まったく勘違いですよ、これは。
完全に思い違いをしています。
ゲームの中のリュウは、なぜ動いてくれるんですか?
僕がゲームの中のリュウをコントローラーで操っているから?
それだけじゃないですよね?
ゲーム機やディスプレイに電気が通っていて、
更にゲームのプログラムが裏側にあって、
それらが勝手に動いてくれているからです。
それって、もう明らかに僕じゃないですよね?
その上、僕ではない誰かが設計して作ったものですよね?
なのに、僕らはそのことを忘れていました。
そして、僕やあなたの身体とは、このゲーム機と同じです。
僕は最初、まったく歩けませんでした。
では、なぜ歩けるようになったのか?
「私の意識」と「私であって私ならざるものだった身体」が呼吸を揃えて、反復練習の末に二人三脚できるようになったからです。
そして、僕が食料という電気を供給することで、誰かに自動生命維持プログラムを組み込まれた身体ががんばって作動してくれているからです。
これは、プレイヤーである僕の操作によって、ゲームプログラムを通じて電動するリュウが、僕の意識と人馬一体となって竜巻旋風脚を繰り出すことと同じです。
あなたがあなたとして生きるということは
あなたの意識と、
あなたであってあなたならざる身体の共同作業
だったのです。
なのに僕たちは、すっかりそのことを忘れていました。
「リュウを操作する私」と「リュウ」は別人だ。
それは分かるのに、
「身体を操作する私」と「身体」は別人だ。
それは急に分からなくなってしまうのです。
物心つく前に身体操作を完璧にマスターしたために、
それが他者だなんてとてもじゃないけど信じられないためです。
つまり「身体も含めて全部まるごと自分」だと思いこんでいます。
なので、自分を二十四時間支え続けてくれている陰の恩人に対して「ブサイクだ」「なんでこんな体型だ」「もっと美しければ」などとケチをつけ、更にそれらは「劣等感」だなんて的のはずれた認識すら持っています。
それは実は「劣等感」なんて生やさしいものではないのです。
それはただの「身体という他者への無意識的誹謗中傷」です。
他人にだったら「お前ブサイクだな」「お前なんてそんな体型なの?」「お前なんでもっと美人じゃないの?」なんてズケズケ言わないですよね?
でも自分の体は自分、自分ならそういう悪口を言ってもいい、という遠慮のない意識になっている。だから他人と思わずズケズケ言っています。
そしたら、いくら日夜文句一つ言わず自己主張せず僕自身を支え抜いている身体でも悲しまないはずがないですよね?
だから体調不良になってしまったり、腫瘍ができて病を発症したり、身体の方から影響が派生して心の調子まで崩してしまうのではないですか?
本当はそういうことなんです。
僕らは赤ん坊のとき、
身体というお馬さんに乗り込んだことを、
ずっとずっと忘れてしまっているのです。
あなたの身体とは、あなたが操れるようになったあなたのお馬さんです。
もし今もお馬さんを無意識的虐待しているなら、もうやめにしましょう。
これまでひどい扱いをしてごめん、
今までずっと私を支えてくれてありがとう
って身体さんに言いましょう。
世界中の誰がなんて言っても
私だけはずっとあなたの味方だよ
って言ってあげましょう。
おそらく、僕たちは
生まれてくる前、そのお馬さんの、
決して優れているわけではない見た目、
そういうポテンシャルであったとしてもそれをあらかじめ分かった上で、
あえて自らの意思で乗り込んできたはずです。
たとえ世界中の誰もが称賛しなくても、
私だけはあなたを愛する。
あなたという身体と共に楽しく生きていく。
そう誓って、自分自身で選んだはずです。
そのことを思い出しましょう。
そしたら自分の身体に対して、ひどい扱いはできないはずです。
容姿コンプレックスなんて的はずれなものは最初から存在しなかったのです。
(「読むだけで即解消」は言い過ぎですかね。えー何それ意味わかんないなんかコワイって方もいるかもしれません。でも、たまーにこのことを思い出してみてください。あるとき突如ストンって腑に落ちて思考回路が切り替わる瞬間が来ると思いますので。お読み頂いて、ありがとうございました)