『人間の教科書』 数字1~10に潜むアセンション(意識進化)のカタチ【神への回帰】
今朝、夢うつつの中「数字のカタチには人間の意識進化と神人合一への道のりが表されている」という解説が頭に浮かんできました。
書き出して整理してみると「神の誕生」から「人間が神へ回帰するまでのプロセス」が、ここに表れているように思えて面白かったので紹介します。
(「次元上昇」の信憑性が高まってワクワクできるかも〜)
文面でもまとめなおすと
「0~10までの数字の形は、きちんと意味があって、こんな形になってるよ」という内容です。下に紹介します。
◆まず「0」は0次元、すなわち「点」を表している。
そのため「点」みたいな「0」という形です。
かつ「点」とはマクロかつミクロであること。
「宇宙=極大」と「素粒子=極小」が円環状に繋がることを表してます。
だから「0」という輪っかの形です。
(「∞」という無限大を表す記号は「0」を2つ並べてメビウスの輪上に繋げた形をしていますが、まさにこれはマクロとミクロのつながりですね)
つまり「0」は「神」がただ在った状態、
「全て有る」「全て無い」が重ね合わされた状態。
それが「0」です。
※注)「0」とは単なる無ではない。
◆そして「1」は線(三位一体)を表しています。
これは見た目にもわかりやすい。
ただ「線」とは何かといえば「三位一体の始まり」です。
「ここ、そこ、あそこ」であり「現在、過去、未来」です。
また「私、あなた」「1、0」の区別ができる隔てでもあります。
線=1次元は「点が点を認識」できるカタチでもあります。
(最初の点から距離をとって俯瞰することで最初の点を見ることができる)
つまり「神があなたと私に別れた状態」を表すカタチです。
あなたと私(0と1)に分かれたことで初めて自己と他者の認識ができた、
というわけです。
そしてヌーソロジーでは線は線として捉えていた気がしますが、
神の視点に立って考えると
線とは物理的あるいは概念的な線のことではなく時間の誕生でしょう。
つまり過去と未来のただ中にある点が「現在」であり、
その現在点から始点方向へ無限に伸びる線が「過去」、
その現在点から終点方向へ無限に伸びる線が「未来」です。
なので「0」という一者の概念のみの世界(全てが有る世界)に対し
神は「1」という制限、つまり「時間」という隔てを作った。
まず世界は光と闇に隔てられた、ということです。
この光と共に言葉が生まれ、世界は分け御霊となりました。
なぜなら言葉とはすべて0と1の組み合わせに置き換えられるため。
◆次に「2」これは時間知覚です。
「1」の線を横に寝かせて底辺とした線分(ー ←こんな線)から「魂」がフワフワ~ンと舞い上がって(2)、下の線(ー)を見下ろしている姿を形象化しています。
つまり「(線=時間)を俯瞰する位置」それが「2」の意味です。
2次元(面)として1次元(線)を俯瞰できるようになったことで神さまは初めて時間知覚を獲得しました。
「1=線(時間)」を俯瞰する位置=「2=面(時間知覚)」です。
「場面」という言葉がありますが、
これは時間軸上のある特定場面(「点=瞬間」の集合=時間)を差します。
なので「面」とは時間知覚のことです。
◆「3」は記憶の知覚です。
「3」は「2」のフワフワ~ンの終点(書き順的には最初の点)から更に上方へフワフワ~ンと上昇して「2」を見下ろす位置に魂が登ったことを形象化しています。
これは様々な「時間の知覚(=一場面)」を知覚できる位置です。
つまり「ある一場面を写した複数の写真」を知覚できる位置なので、これはつまり「記憶」のことです。
神さまは概念、時間の次に
「記憶の知覚」を獲得しました。
◆「4」は「空間知覚」です。
これ3本の線から構成されていることから分かる通り1,2,3で獲得した3軸(すわち概念、時間、記憶)をまとめて知覚できる位置です。
つまり、ここで初めて「空間知覚」が生まれます。
物質や空間を「立体」として認識できるようになる、ということです。
(空間自体は「3」ですが、「空間知覚」は4です。
知覚を獲得するためには1次元上昇する必要があるためです。
※全体理解のためには「主観」と「客観」の区別が必要です。ですが今の科学では「客観」の世界しか扱わないので世界の半分しか理解できず、片手落ちです。生の現場である主観を考慮に含めばもう半分が理解できます。
「次元上昇」「獲得」というと何かが足されているように思えますが、
実際は「0」に様々な制限を加えていくことで
知覚が獲得されています。
知覚とは、むしろ制限のことです。
僕らが可視光線を知覚できるのは、可視光線を見る力が授けられているためというより、可視光線以外を見る力を不可視にされているためです)
※それゆえ「0」こそが万能の状態です。
◆「5」は「(主観的な)自他合一」です。
「5」の最上部の横線は
「1」同様「個(わたし)」を表しています。
そして横線から下方に伸びる縦線、
これが「別の個(あなた)」を表しています。
この「わたしとあなた」を円によって等化しようという働きが
「5」という数字の形象に表現されています。
(横線と縦線を魂が円としてまとめるべくクルリ〜ン(5)と下方を漂っています。俯瞰ではなく統合したいので2線分を奉るように下方に円形があるのでしょう)
「5」は平たく言うなら「主観的にワンネス体感を得ること」
つまり「(主観的な)自他合一」これが5です。
ちなみに、5は「ゴ」とも「イツ」とも読めます。
カタカムナ的には「コ(=個)」が複数存在することを「ゴ」と濁点で強調するとか小耳に挟んだことが有る気もしますが、そうでしょうか???
また「イツ」とは「心を一にする」というときの読みとも同じです。
「5(イツ)」とは、あなたとわたしという別々の個を「1(イツ)」にする形なのです。
(※後日追記:ここは多分、不正確ですね。「5」は三次元的自己(身体)と四次元的自己(精神)という「あなたとわたし」を魂が円として等化させる数字でしょう。つまり本来的自己(純粋持続)の知覚する位置です。
これが礎となって「6」から「5」を俯瞰することで獲得される知覚が「主観的自他合一の知覚」でしょう。
◆「6」「7」「8」は
「客観的な(完全なる)自他合一」へ向かう数字です。
「6」は「5で出来た主観的合一を表す下方の円」から魂がフワリ~ンと上方へ上昇(6)して、それを俯瞰しようとしている形象です。
これは個が固有に持つ「時間=1」同士の合一を表しています。
「7」では別々の線分が「7」という二画が合流する形象を通じて、あなたと私という別個の記憶が合一されていく姿が形象に表されています。
(それゆえか「2=記憶」を上下逆さました形でもあります)
「8」は「3(=空間)」と「上下逆さまにした3(=他者の空間)」を組み合わせた形象です。
つまり、あなたとわたしの空間を重ね合わせることを意味しています。
つまり「6」「7」「8」を通じて
「時間・記憶・空間」をすべて合一させる動きを表しています。
そして「9」は、この営みの結果として「客観的な自他合一」が果たされた姿を表しています。
◆つまり9は神人合一を表す数字です。
「0」が一者なら、「0」を俯瞰する姿を描いた「9」は「人が神に回帰した姿」と言えるでしょう。
「一者+α」それが「9」です。
◆そして「10」は進化した神と再分離の姿です。
「10」は「1」と「0」つまり個と全体です。
ここで再度、人と神の再分離が行われます。あるいは
個が全体であり、同時に全体が個である、
という進化した一者の姿を表しているのでしょう。
◆そして「10」に到達することが、
おそらくこの宇宙すごろくの目的です。
10に達すると(あるいは達しなくても制限時間を迎えると)次元交代が起きて、また「4」たる人間が「10」を目指す旅が始まるのではないでしょうか。
◆「0たる神」が「1なる分け御霊」を作って
「10を目指す宇宙すごろく」クリアを目論んでいる。
それが、あなたやぼくの人生なのです。
だからこそ「そういうことなんだよ」というヒントがこの世界にはいたるところにあるのではないでしょうか。
聖書や古代遺跡、占星術、八卦、そしてこの数字の見た目もその手がかりの一つでしょう。
神は自分で自分を人間に転生させて記憶喪失にし、
自分で仕掛けた謎を
自分に謎解きさせている、
それがこの世界の営みなのです。
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そんなインスピレーションが夢うつつの中フワフワ~ンと頭に浮かんでしまったのですが、こういう内容って、どこかで提唱されているでしょうか?
僕がどこかでそういう内容を見たことがあって、その記憶を潜在意識が奥底から掘り出してきたのか(そんな記憶はないけど)。
それとも、フラワーオブライフ的な円環のなかで、アカシック的な知識庫にアクセスした結果なのか、
はたまた僕の潜在意識が単に暴走して発案したのか、よく分かりません。
(主観的な感覚としては必死こいて考えたというより「自然と発想が降りてきた」って感じなのですが)
というわけで、この数字の形から読み取れる意味、偶然にしては、よくできてるように個人的には思ったのですが、どうでしょう。
やー、しかしGWの貴重な半日を、こんな与太話みたいな記事を書くのに費やしている僕、いいのかこれで!?(いや、いい!許す!ありがとうGW!)
今日もお読み頂き、ありがとうございました。