
オウムガイが見た古代の月と、存在の光《読書メモ:『青天有月』松浦寿輝》
柄にもなく、光をテーマにした書籍群を読んでいる。
そのなかでいま、機会あって松浦寿輝『青天有月』を中心に読み進めているのだが、世界の見え方を少しずつ変えてくれる素晴らしいテキストだったので、気づきを書き残しておきたい。
著者はある章で「記憶」を、光の記憶、つまり「昔の光」として物語っている。
今こそ、眼を瞑るべきなのだと思う。(略) 光を体験するためだ。光を聞き、音を見るためだ。眼を瞑る、と、たしかに風鈴の影絵がぼんやりと立ち上がる。それがチリチリと鳴る涼しげな音が聞こえる
確かに「見た」ことが「その物体が発する光が目に入った」ことなのであれば、五感を代表して「記憶とは昔の光である」と言い切っても間違ってはなさそうだ。
また、同じ「昔の光」の章に、太古の月と太陽のめぐりを、年輪、日輪としてその身に刻んでいるオウムガイのエピソードがある。
オウムガイ類の化石について調査を行った結果、(略)一小室あたりの細線数が、年代の古いものほど規則的に少なくなることを明らかにした。すなわち、四億二千万年前の地球では、ひと月はたった九日間しか持っていなかったのである
古生代のオウムガイはすでに原始的な眼球を備えていた。彼らはその眼で、夜ごと深海から浮かび上がってきては、今われわれが見ている月とは比べものにならないほど巨大な月を眺めていたのである
ここで、もし昔日を光として捉えるのであれば、こんなことが言えるのではないかと夢想する。
星々の光が幾千万の光年を超えて届くように、亡き者を捉え、亡き者が発した光も、私たちが気づかないだけで今も私たちを照らしているのではないか。亡き者の肉を魂を形作った呼吸も食物も水も同様に、光としてそこにあり続けているのではないか。
時に、存在を認識することと光の関係は曖昧だ。言葉の光に照らされない出来事は時の流れに沈み、陽や灯りの光に照らされない存在は暗闇に沈む。いずれも「無きもの」として記憶に沈む。
しかし、もしそこに亡き者の光が今も存在するならば、どうして亡き者がいま「無きもの」であると言えようか。
そうすると、ひとつ前の記事で触れたティクナットハンの次の文章は、読んで字の如くとなる。
愛する人を失うことは辛いものです。しかし深く見つめる方法を知ったとき、逝った人の本質には生も死もないのだと悟る鍵が手に入ります。物事には「あらわれるとき」があり、次のあらわれが可能になるために「あらわれることが終わるとき」があります。
愛する相手の「新たなあらわれ」に気づけるよう、いつも注意していてください。実践に努めれば気づくことができます。木の葉や花々、鳥や雨など、周囲の世界に感覚を開きましょう。立ち止まって深く見つめれば、愛する人が何度も何度も様々なかたちであらわれてくるのがわかるでしょう。あなたは怖れと苦しみを手放し、人生の喜びを再び抱きしめられるのです
松浦は、前述の章の最後で、ロランバルトの著書について次のように述べる。
(バルトが)遺著の中で語りたかったのは、つまるところ、オウムガイの見たこの四億二千万年前の巨大な月の光のことなのではなかっただろうか。
いま、この目に見える見たままの光ではなく、他者の体に刻まれる現在を超えた光を、人はまさぐることができる。暗中であっても、歩くことで、手を伸ばすことで、模索できる。
愛する存在は、わが道行きを照らす光へとあり方を変えたのだ。
そう読んで、この読書体験を自らの血肉としたい。
読書の契機については下記に書いた。
『青天有月』を知るきっかけになったのは下記のポストより。ありがとう。
松浦寿輝『青天有月』 #読了
— 🍷📖🅼🅾🅶🅼🅾🅶📖🍷 (@book_punch_line) January 2, 2024
新年最初の一冊は学生時代に読んで感銘を受けたこちら。今読んでも素晴らしい。名刺がわりのタグが“小説”という縛りでなければ筆頭に掲げるだろう名随筆。
光に、言葉に、揺らぎ続ける存在に思いを馳せる。
今年はもっと詩集を持ち歩こうと思います。 pic.twitter.com/QIfO6Uz5es
2024年1月8日 後記
過去に大学入試で出題されたことのある箇所のようだ。この歯応えの文章を17-8歳で精確に読解せねばならんとは大変だ。しかし、若い時にこんな文章に出会えるというのも、それはそれで恩恵か。