麗江を流れる雪解け水
中国の雲南省。標高2400mの地に、ナシ族が暮らす古都「麗江」がある。
この街を見下ろすのは、5000m級の霊峰「玉龍雪山(ぎょくりゅうせつざん)」。
その名の通り、山の稜線は龍のようにうねっていて、龍の背には白くて美しい雪が積もっている。
玉龍雪山の雪解け水は、大地に染み込み、清らかな湧き水となってこの街に注がれる。
麗江の街には、「水路」がまるで迷路のように隅々まで張り巡らされていて、水路を流れる雪解け水がナシ族の暮らしを潤してきた。
水路に並行するのは、石畳の道。
水辺には、花が咲き、木々が茂っている。
ナシ族伝統の瓦屋根の木造家屋がところ狭しと並ぶ。
古いおもかげそのままの街並みは、随分と遠くに来たのに、なぜか懐かしい気持ちにさせる。
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その日も朝から晴れていた。乾燥した空気と強い陽射しを顔に受ける。玉龍雪山が美しく見えた。当時、大学生だった僕は、1人あてもなく街を歩く。
水の流れに沿って、石畳の道を進む。水路はところどころで分岐する。キラキラと光る水の流れを細い方へと追いかけていくと、石畳の道の幅も狭くなっていく。
そうやってどんどんと脇道にそれる。雑踏の目抜き通りと違って、脇道は静かな空間だった。そこでは、ナシ族の生活の匂いを感じた。
その人とは、そんな静かな場所で出会った。いや、正確には出会ったときのことはよく覚えていない。別れ際のことは覚えているのに。
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僕がよく話をしたのは初老の日本人男性だった。幅の狭い脇道で、2人で横に並んで歩きながら会話をした。
初老の男性は、落ち着いた低い声のやさしい人で、その博識ぶりには驚いた。
けれども、僕は、半ば上の空で彼の話を聞いていた。なぜなら、すぐ後ろを歩く、美しい女性のことが気になっていたからだ。
綺麗な人だった。透き通るような白い肌。長い黒髪は後ろで1つに束ねられていた。
彼女が着ている黒のフリースジャケットが、彼女の肌の白さをより一層際立たせていた。
小さなカバンを肩から斜めにかけていて、日本語で話す僕らのすぐ後ろを付いてきていた。
「彼女、台湾の人なんだよ」
初老の男性は、そう教えてくれた。
彼女には言葉が通じなかった。
結局、彼女について僕が知ったのは、台湾の人であることと、初老の男性と2人で長い旅をしているということだけだった。
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麗江の街には、石畳の広場がある。
迷路のような細い脇道も適当に歩いていれば、大抵はこの広場に辿り着く。
別れを繰り返してきた水の流れも、この広場に向かって重なり合っていく。そして水の流れは、ゆっくりと、広く深く穏やかになり、水面に空と雲を映し出す。
なぜだか覚えていないが、僕はこの広場で、彼女と2人きりになった。
広場の隅っこの大きな1本の木の下で。
僕と彼女は木漏れ日のまぶしさを遮りながら、2人で横に並んで立っていた。
初老の男性が帰ってくるであろう方向を見つめて、2人で静かに待っていた。
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石畳の広場には、みやげ物屋がびっしりと並んでいる。いつも、観光客とナシ族でごった返している。ただ、そんな賑やかな光景も、僕の目には入らない。
僕はふと、彼女の方を向き、彼女の顔を見た。
彼女も僕の方を向き、僕の顔を見た。
みやげ物屋のかけ声、観光客の会話、ナシ族の歌。広場で繰り広げられるそんな喧噪も、僕らの耳には入らない。
僕は、彼女と目が合ったと思った。
でも、すぐに、それは僕の思い違いだとわかった。
彼女は、ずっと、僕の口元を見ていたからだ。
そして、彼女は、何かに気がついたようだった。
彼女は、白くて可憐な指先で、僕の唇を指さした。僕の唇は、乾燥してカサカサになっていた。
彼女はカバンの中を漁ると、何やら小さな物を取り出した。
彼女は、その小さな物を僕に見せながら、今度は自分の唇を指さした。彼女の唇は、艶やかに潤っていた。
彼女が取り出したのはリップクリームだった。
すると彼女は、自分の人差し指にリップクリームをつけた。
そして、下から見上げるように僕に近づくと、白くて可憐な指先を、僕の唇にあてがった。
そしてゆっくりと動かして、僕の乾燥した唇を、彼女は指で潤していった。
一瞬、時が止まったように感じた。
木漏れ日を浴びながら、僕を潤していく白く美しい彼女。
反射的に「謝謝」と、口が動いた。
彼女はその口元を見て笑った。
*****
旅すがら出会った人との別れは、見送ることもなければ、見送られることもない。
それぞれ別々の方向の道を進んでいくだけだ。
この広場に集まった水も、再び分かれて流れてゆく。
お互いに手を振り合って別れた後、僕は一度だけ、振り向いた。
雪解け水は、そこに留まっていたように感じただけだったようだ。
水は留まることなく絶えず流れていた。
あのときの透明な美しい水は、どこかへ流れゆき、既に消えていた。
もう出会うことはないだろう。
果たして彼女の旅に終わりはあるのだろうか。
幅の狭い脇道に1人佇むと、足元を流れる水のせせらぎが、僕には確かに聞こえてきた。