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定住革命は人類に何をもたらしたのか?
こんにちは。
ゆです。
さて、ここ3日ほどかけて、『暇と退屈の倫理学』(國分功一郎著)を通読してきました。
残すは「結論」の章の10数ページのみとなりました。はじめから振り返りつつ、面白かった箇所を引用して、何を受け取ったか・何を感じたのか、また何か生活に応用できるか等、つらつらと書いていきたいと思います。
続けていきたいので、あまりがんばらないで書きます…お許しを!!
人類と遊動生活
サルや類人猿はあまり大きくない集団を作り、一定の範囲内を移動して暮らしてきた。どれほど快適な場所であろうと、長く滞在すれば荒廃する。食料は無くなるし、排泄物で汚れてしまう。だが頻繁な移動すれば、環境を過度に汚染するのを防ぐことができる。汚染された環境もしばらくすれば元に戻る。時間が経ったらまたそこに帰ってくればあい。
このような生活を遊動生活と呼ぶ。この伝統はそのまま人類にも引き継がれた。
伝統的な遊動生活を送ってきたのに、定住生活という新しい習慣を身に付けるのは大変だ。
周囲の環境が汚くならないようゴミ箱にゴミを捨てたり、トイレで用を足したりするのは、意識的に習慣づけなければならない。
定住革命が人類にもたらしたもの
遊動生活を送るために、人類は五感を研ぎ澄まして新しい環境に適応するための探索能力を発達させてきた。
しかし定住革命はそうした人類が持つ潜在的な探索能力を「あまらせてしまった」のだ。
定住によって人間は、退屈を回避する必要に迫られるようになったのだ。(中略)定住者がいつも見る変わらぬ風景は、感覚を刺激する力を次第に失っていく。人間はその優れた探索能力を発揮する場面を失っていく。だから定住者は、行き場を無くした己の探索能力を集中させ、大脳に適度な負荷をもたらす別の場面を求めなければならない。
おもしろ…
つまり、遊動生活において発揮されていた力は、定住生活を送る上で、余ってしまうんだ。その余りをうまく対処できないと、つまり上手な暇つぶしができないと人は「ヒマだなあ」「やることないなあ」と口にしてしまうんだ。
おもしろ!!…
もっといろいろなことができるはずであるのに、することがない。自分の能力を十分に発揮させることができない。まさに退屈である。(中略)
定住革命は退屈を回避する必要を与えた。ならば定住民は自らの手で、退屈を回避するという定住革命を成し遂げねばならない。ちょうどトイレに行って用を足し、ゴミ捨て場でゴミを捨てる習慣を身につけたように。
受け取ったこと・感じたこと
・これまでぼくは、「することがない」「ヒマだなあ」という退屈の感情は「自分のせいだ」と思ってきた。
自己嫌悪になったりもしていた。
しかしそれは定住革命によって生じた、退屈と向き合う人間全ての課題なんだと分かった。
こうして「本を読んで」「文章を書く」のも退屈凌ぎ・暇つぶし・気晴らしにすぎない。
でもボーッとYouTubeを見たり、時間にあくせく追われたりするよりは、マシな暇つぶしかもしれない。少なくともおれにとっては。
まとめ
・定住革命が暇と退屈をもたらした。テイジュウカクメイめ、かかってこい!
人間の不幸というものは、みなただ一つのこと、すなわち、部屋の中に静かに休んでいられないことから起こるのだ。
じっとしてられないから、また感想を書こう!
じゃあまたねー。
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