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合田正人先生との出会い

縁とは不思議なもので、ひととひととの思わぬ出会いに驚き、感謝することがあります。

何十年も哲学や神学という学問と知的格闘を積み重ねてきましたが、その成果をまちづくりにいかしたいとの思いで、思い切って地方政治の世界へ飛び込んでみたものの、アカデミズムの世界から「遠くへきてしまったなあ」という忸怩たる思いを隠すことはできないところもあります。

ともあれ、大事なことは、どこにいても学ぶことを諦めずに、死ぬまで研鑽し続けることだと頭では理解していても、感情として整理できない部分もあるという話ですが、まあ、一人でやっているとしんどいなあと思います。

さて、ほんと、縁とは不思議なもので、色々な人々の出会いや巡り合わせの積み重ねで、エマニュエル・レヴィナス研究の泰斗である哲学者・合田正人先生と少しの時間だけお話しする機会を頂戴しました。

ほんとにその後押しをしてくださった方に感謝です。

お父さんから話を通してくださったみたいで、たまたまご実家のお宅に伺ったとき、偶然帰省でいらっしゃり、歓談の機会となりました。

哲学的なもの、思索的なものを、暮らしの中、仕事の中に活かしていくことの大切さを後押しして下ったように思います。

本当にありがとうございました。論文や著作執筆で諦めもありましたが、自分にとっては生涯の大業です。

また、がんばろう!

 「あるものは他のもののために」という表現における「ために」〔代わりに〕は、ある語られたことと他の語られたこととの、ある主題化されたものと他の主題化されたものとの係わりに還元されるものではありません。さもなければ、<語られたこと>としての意味の次元にとどまることになりましょう。しかし私たちとしては、<語ること>としての意味がなにを表しうるのか、この点を探らなければなりません。
 「ために」〔代わりに〕は、人間がその隣人へと接近する仕方であり、もはやある者の尺度には収まらないような関係が他の者とのあいだに創設されるその仕方です。それは近さの関係であり、そこで働くのは、ある者の他の者に対する責任です。このような関係のうちには主題化不能な知解可能性があります。それは、主題や主題化の効果によってではなく自分自身によって意味を得るような関係なのです。つまり、少なくともここでは、知解可能性と合理性は根源的な仕方で存在に属するものではないのです。ある者が他の者のためにある、そのような関係のうちには、根拠の合理性にもとづいてはもはや考えられないようなある関係がはらまれているのです。
出典:E.レヴィナス合田正人訳)「<語ること>としての意味」、『神・死・時間』法政大学出版局、1994年。


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氏家 法雄 ujike.norio
氏家法雄/独立研究者(組織神学/宗教学)。最近、地域再生の仕事にデビューしました。

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