「学ぶ」とはについて何度も考えた
「まちの大学」という鎌倉のコミュニティスクールで、活動する上で大切にしていることを言葉にしようと、「学ぶ」とはを結構長い時間かけてまちの大学の学部長の皆様と議論しました。(何度も議論させていただいているのですが、実現はまだまだ遠い先だなーという感じであることを先に本当に本当に申し訳ないなと思いながら付け加えます・・・。)
2019年に始まったときから「まちの「人」と「学び」に出会う場所」という言葉を掲げています。「まちならではの強みを学んで、みんなが活躍して、その強みがまちに還元されると良いよね」ということが表現されている言葉です。
これを実現したい「ビジョン」とした時に、まちの大学は何をするところなのかがはっきりしていませんでした。
普通に考えると、講座を作り卒業生を輩出することでコミュニティが作られていく、だからまずはカリキュラム体系やコミュニティ活動そのものを作りましょう、となるような気がします。でも、どうも違うな、となりました。
カリキュラムをつくる理由と今回の目的があってない
学習を何かこうなりたい行動や姿が目的としてあって、それに近づくためのものと考えると、カリキュラムは「こうなりたい」に向けたステップをひたすら分解して作るものと考えられます。(コミュニティも、同様で「こうなりたい」人のための集まりと定義できる。)
でも今回のビジョンは、「●●が得意なまちをつくる」ではありません。
「まちの「人」と「学び」に出会う場所」なのです。
この文章の意味は、A:「学び」という活動を通して「人」と出会うことでもあるし、B:「人」を通して「学び」に到達する、でもあります。
つまり、目的は、この2つの状態が繰り返されていること、相互に補強されて、だんだん蓄積されていく関係性そのものです。言い換えれば、「人」と「学び」がお互いにダンスをしてお互いを触発し続けているような状態だと考えられます。
このダンスを踊り続けることが目的でもあり手段でもあります。
ミッション: 「学習するまちをつくる」
そう考えた時に、「学習するまちをつくる」という言葉が生み出されました。ピーター・センゲさんの「学習する組織」をまちに変えているだけですが、その状態をつくることを指標とすることで、先ほどのダンス状態を意図的に生み出すという意志だけは言葉にできました。
こうして、「学習するまち」という言葉に置き換えることで、今度は人が「学ぶ」とは何なのか、どうしたらお互いが学び合えるのか?という問題意識が出てきました。
そもそも「学び合う」と言っても誰もがすぐに乗り気になって、はいっ!と手をあげて「これこれこういうことをやりたいです」「私はこれです」とすぐに明瞭にハキハキと学び合いスタート、とはならないような気もします。
もっと、何となくこれが好きだなとか、何なとくここは居心地が良いな、といったぼんやりとしたところから始まる方が「学習するまち」に近いような感じもします。
言葉のイメージを頼りに、より具体的なことを考えていくと、価値観が何となくですが出てきました。
バリュー: 「面白いことを通して学ぶ」
これは具体的には、例えば「映画を見る」→「面白いので思わず人に喋る」→「そうだよね!と興奮状態になってめちゃくちゃ喋る」→「そこでの気づきが学びになり」→「また別の映画を見る」といった日常行動を想定しています。
「学習するまち」と言われても、多くの人は自分ゴトとしては捉えないだろうということからも、何かしら、「すごい楽しい!」という要素は不可欠なのではとなりました。
そうなってくると、ますます提供手段は「講座」とは限りません。
どんなコンテンツがひとの心を刺激して「面白い!」を導き出すのか、そして、それが面白いだけでなく「なるほど」という「学び」を引き出す人との会話や内面の対話を生み出すのか、この全体像を一歩一歩考えていく必要があります。
具体的には、ブレストワークショップやブレストカードのようなコンテンツとして面白いものをつくることや、コンテンツを通した学習をもっと考える必要がありそうです。
そして、この状態が完成されていくと、最初のビジョンである「まちの「人」と「学び」に出会う場所」に戻ります。
「人」と「学び」がお互いに手を取り合って高め合っていくダンス状態になると想定されます。
ここまで考えてみて、備えるべき機能の輪郭まではようやく分かったなという感じですが、実際に作るのはこれからです。こういうことを一緒に考えたい人はぜひお知らせください!
・ということを考えて書いた「まちの大学について」
・内部監査室は一緒に働く仲間を探しています!
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