【旅日記】東京2024秋|6.表現のゆくえ
分かりにくさ、分かりやすさ
映画のあと、ライブまでの時間を会場近くのプロントで過ごして、ふたたびLINE CUBE SHIBUYAへ。
折坂悠太さんのライブ2日目は、1日目とは違う印象を受けた。1日目よりも冷静なわたしで観られたということが大きかったのだと思う。折坂さんの歌、昨日よりエモいなーとか、お客さんの層がたぶん昨日とは違うなー(ビギナーが多かった感じ?)とか、「感じること」に「考えること」が加わって、1日目を「過去」とするなら2日目は「今」と「未来」を見つめるような時間だった。
2日目の折坂さんは、自らの表現の「分かりにくさ」について語った。それから、各々がじぶんの仕事(役割という意味だと思う)をまっとうすることが世界から戦争をなくす道へとつながるのではないか、というような思いも。
わたしは彼の言葉を、じぶんの表現と仕事に照らし合わせて反芻し、普段の考えに揉み込んで練り直してみたりした。
ほんとうのところ、わたしが好むのも、「分かりにくい」表現だと思う。「分かりにくさ」は広く届けるには不向きだけれど、受け手に深掘りの楽しさや豊かさを与えてくれる。それは受け手の感性や読解力を高めたり、ひいては文化全体の底上げにもつながる力を持つのではないかと思う。実際に折坂さんの音楽はそんな役割を担っているような気がするし、わたしもまた、その「分かりにくさ」に魅了されてきたひとりだ。
だからほんとうは、わたしが仕事で物を書くときにもそんな文体で書きたい。感性をフル稼働した詩的な言葉で、たくさんの感覚と思考に満ちたような、なるだけふくよかな表現を目指したい。
けれどわたしが担っている(担ってきた)のは、物書きの中でもライターという仕事で、ライターにはその「分かりにくさ」がじゃまになる。わたしの文章に求められるのは「伝える」ための「分かりやすさ」で、わたしに必要なのは媒体と化すこと。ライターを仕事にしてからわたしの文章の「分かりやすさ」は磨かれたけれど、もともと持っていた感性や子どものような心はどんどんくすんでしまった。「よくまとまっている」とか「分かりやすい」と言ってもらえるたびに、胸はちくんと痛み、わたしはこのままどこへ行ってしまうのだろうと思った。ほめ言葉なのは分かっている。けれどわたしにはそういう言葉たちが「誰にでも書ける文章を書いている」と同じ意味に聴こえて、悲しくなった。
だから、「分かりにくさ」を使いこなして必要な人に思いを届けている折坂さんの表現に、わたしはすごく憧れる。それに折坂さんはじぶんの表現を「分かりにくい」と捉えているようだけれど、ちゃんと「分かりやすさ」もある人だ。もしかしたら、求められる仕事に応じて使い分けているということなのかもしれないけれど、それはそれでものすごい能力だし、なんて懐の大きな表現者なのだろうと思う。
そして、背景にあるのは、そういう思わく的なことだけではないような気がする。「分かりやすさ」とは受け手を選ばない表現であって、それはつまり優しさ。素直な、真っ直ぐな表現はより広く届けられるから、かねてなら届かなかった人にまで届くし、もしかしたら世界を変えることだってできるかもしれない。だから「分かりやすさ」と「分かりにくさ」、つまりポップネスとオルタナティブの両方を抱き込んだ折坂悠太という人に、わたしはやっぱり憧れてしまうのである。そんな人、いそうでいない。
開場前、わたしが客席で見かけたお客さん。いかにも音楽やってます的なロン毛(言い方!)の男性、ビジネス服の若いサラリーマン、夫婦と娘さん、英字本を読む中年男性、そしてわたしは昨日買った内田百閒先生の本を開いていた。ほらね、みんなばらばらでしょう。共通するのは「折坂悠太の音楽を聴きたい」というぐらいのことで、でもその奥にはもっと深くて大切な、たしかな「何か」があるようで。だからこの世は、いろいろあっても大丈夫なんだと思う。
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