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たぶん手の届かない彼方の世界の「空(くう)」

人は少しずつ「この世」から離れていくのだろうか。
その先になにか世界があるのだろうか。

お別れを言いに来てくれた(と感じた)友人の背中をぼんやりと見送りながら、
「あ、この感覚、知ってる」と思った。

滑り落ちた世界

もう20年以上も前のこと。
むずかしい状況が重なり、私は極限状態に追い詰められていた。

あるとき「あ、とうとう壊れたな、私。」と感じた。

目の前の現実から見事に滑り落ちてしまった感覚。

なんの世界にはまり込んでしまったのか…。
説明のつかない、証明のしようもない奇妙な世界。

時間と空間が入り乱れて「多層」をなしている中に、私は心もとなく佇んでいる。

日頃私たちが感じている世界ではなく、もっと複雑に次元の入り組んだ世界。

たぶん「破綻」した人間だけが垣間見られるのではないかと思える危うい世界。
そこへ踏み込んでしまったら、もうこちら側に帰ってくることの難しくなる世界。

かろうじて、私は自分の精神がいよいよ危ういことだけは認識できた。
長くそこに留まれば、フツーだと思われる世界へ戻ることはたぶん難しい。

焦った。

ここは、どこ?
私は帰れる??

それからしばらく「妙」な感覚は私につきまとった。

何か自分の足元が危ういような。
また滑り落ちてしまっているような。

体の半分くらいは常にその妙な世界に浸かってしまっているようで、気味が悪かった。

たぶん、「破綻」はいとも簡単に私を掠っていくはず。

長い時間が過ぎて、ようやくそんな妙な感覚も薄くなった。

危機を脱して無事にこちら側へ着地できたのか。
それとも
実はまだその危うい世界の中にいるけど、私が慣れてしまったのか。

わからない。
でも今となってはどちらでもいいか、と思う。

仮に私がまだ危うい世界にの中にいるとしても、
私はとくに周りの人たちとのコミュニケーションには困らずに生活できている。

人と直接に話をするのも、SNSなどでのやり取りにも、全く困ってはいない。
人とのコミュニケーションを心から「楽しい」と感じられている。

もしかしたら知らない間に周りの人に不気味な感じを与えていたり、
奇妙な人だと思われているのかもしれない。

でも、面と向かって私に対してイヤな感情をぶつけてくる人もいないし、
私はたくさんの温かい人たちに囲まれて穏やかな日々を過ごしている。

だったら、それでいい。

もしかしたら自分で気付いていないだけで、私は病んでいるのかもしれない。
でも、その「病んでいる」部分で自分が困っていないとしたら、
それは私が堂々と抱えていて差し支えない「病み」なのだと思う。

長いこと、自分が踏み込んでしまった奇妙な世界のことを口にできずに生きてきた。
思い出すのもちょっと怖かった。

しっかり思い出したら、またそこに呑み込まれてしまいそうな気がしていたかもしれない。

先日、友人の背中をぼんやりと見送りながら、
「私が抱えている危うい世界を、私は堂々と抱えたままでいい」と思えた。

彼女がそう思わせてくれたのかもしれない。

「空(くう)」

本を読んでも、話を聞いても、「般若心経」の世界は難しい。
「空(くう)」については「実体がない」という言葉で説明がなされることが多い。

どれほど追い求めても、生きているうちには体感のできない世界なのかもしれない。

私の垣間見た世界は、「空(くう)」の世界だったのか。
病んだ私の幻覚が作り上げた世界だったのか。

どちらでもいいと思える。

極限状態に陥った私がなぜ完全に破綻してしまわなかったのか。
なぜ私が生かされてきたのか。

たぶん、答えはない。

病んでいても、病んでいなくても、どちらでもいい。
私は私の世界を生き尽くそう。

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