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ようこそ!ディズニーランドへ!-「型通り」の授業・その本質-

1.ディズニーランドという夢の共生社会
 我が家には知的障害のある娘がいる。もう、二十四歳(当時)になる。父親の繁忙の度合いが高まり、娘と二人での外出はめっきり減っていた。娘が大好きなディズニーランドに行くのも、妻やガイドヘルパーさんに任せきりであった。しかし、この夏、本当に久方ぶりに、娘と二人でディズニーランドへと出かけた。
 ディズニーランドには、障害のある人が利用できる「ゲストアシスタンスカード」という制度(当時)がある。様々なサービスがあるのだが、-長時間にわたって並ぶことが苦手な娘は-指定された時間に行けば、優先的にそのアトラクションを楽しめるこのサービスを利用した。本人と家族(あるいは、ガイドヘルパー)にとっては大変ありがたい制度である。
 指定時間に、希望するアトラクションの入り口に行くと、「ようこそ、○○へ!この場所で、お待ち下さい」「こちらです。この黄色い線のところでお待ち下さい。」…スタッフは明確に、しかも、温かく誘導してくれた。
 しかし、最も感銘を受けたことは、スタッフが一貫して、しかも、徹底して、まず、娘本人に語りかける点にあった。その上で、父親である筆者に念押しするようにしていた。
 残念ながら、その方の誠意に娘が適切に応えていたかというと心許ないが、それでも尚、一貫して、娘に語りかけてくれた。乗り込んだトロッコが発車するまで、笑顔で手を振って、丁寧に見送ってくれた。
 
2.ようこそ!これが合理的配慮ですよ!
 サービス産業としてのディズニーランドのすごみは、至る所で語り尽くされている。もしかしたら、これは、「型通り」でマニュアルどおりの対応であったのかもしれない。仮に、「型通り」の対応であったとしよう。しかし、その支援の質は、「特別(スペシャル)」を標榜する斯界のそれをはるかにしのぐように思えた。
 「子ども主体」が言われて久しい。振り返って、日々の授業での支援はどうだろうか?……「理解言語が乏しいから、話しても分からない」との理由で有無をも言わさず、いきなり手を引いていないだろうか?子どもが自ら取り組める適切な状況づくりをしない授業を展開しておいて、「障害が重いから…、多動傾向が強いから…できない…」と、子どもをおとしめていないだろうか?
 ピープルファースト:障害者である前に人間である!当たり前のことがないがしろにされている現実はないだろうか?自分が子どもだったらの目線で、日々の授業とそこでの支援を問い直す必要はないだろうか?
 …結局、この日はこのサービスを三回利用した。いずれのスタッフも、娘に寄り添う姿勢に変わりはなかった。「私はあなたの味方ですよ!安心して下さい!側にいますから!」…そんな温かなメッセージが伝わってきた。そして、支えてもらう心地良さ、任せて大丈夫という安心感で-大変暑い一日であったのだが-心洗われ何ともすがすがしい気持ちになった。娘がディズニーランドが大好きな気持ちが分かったような気がする。父親も、「また、行ってみてもいいな!」と本音で思えたのだから。
 あの先生の授業をまた受けたい!楽しみだ!子どもが本音で期待し、手応えを味わえる会心の授業づくりに力を尽くしたい。
 
 拙文は10年前に記された。決して、大げさでない「合理的配慮」がすでにそこにあったのだ。さて、目の前の知的障害特別支援学校の授業はどうであろうか?
 
3.その授業は果たして「型破り」なのか?
 芸道の要諦は「型」を身に付けることとされる。「型」は、芸が成立するための「基礎」「基本」であり、結果として、その型に芸の神髄や魂が宿っていく。それなくして芸で身を立てることはできないとされ、それ故、型を身に付けるための錬磨こそが芸「道」とされるのだ。
 「型通り」とは、いかにも、蔑んだニュアンスを含む。しかし、「型通り」の基礎的技芸の修得を経た後に、名人芸といわれる至高の高みに至り、さらには、「型破り」とも言える独創的・跳躍的世界を生み出すこととなる。それも「型」という「基礎」「基本」とその精神あってのことである。
 否、いわゆる「型破り」の象徴とも言える現代音楽や美術などのアバンギャルドな芸術にさえ、伝統芸術の概念や方法が見いだせるとされる所以である。
 故立川談志師匠が語った「型ができていない者が芝居をすると型無しになる。メチャクチャだ。型がしっかりした奴がオリジナリティを押し出せば型破りになれる。」とは、至極名言であろう。
 一見すると「型破り」に見える斬新な概念や方法も、「型通り」の根本抜きでは、ただの「型無し」と堕する。「型破り」と「型無し」-その曖昧に見える境界には危ういほどの深淵が横たわる。
 転じて、知的障害教育の「型」とはなんであろうか?言うまでもなく、それは学習指導要領解説(知的障害教育)に詳述される生活を大切にする教育理念と「各教科等を合わせた指導」重視の方法論である。これこそが、知的障害教育が積み上げてきた不易の本質であり、正に、「型」である。
 昨今の「教科別の指導」と精緻な「評価・分析票」作成への関心の高まりは、一見、「型破り」でさえあり、目新しく新鮮みを帯びて我々に迫る。しかし、さて、果たして、それらの試みが、単なる「型無し」教育に堕するのか、あるいは、「型破り」な知的障害教育として創造的発展を遂げるのか?その成否は、正に、「型」の修得にかかっていると思うのだが、いかがだろうか?


以上の4回の拙文は『通常学級の「特別」ではない支援教育-校内外支援体制・ユニバーサルデザイン・合理的配慮-』(東洋館出版社)、『知的障害特別支援学校 子ども主体の授業づくりガイドブック』(同)に掲載されているコラムを再編集したものである。(おわり)


佐藤愼二
植草学園短期大学こども未来学科 特別教授
https://www.uekusa.ac.jp/juniorcollege/child_tro/child_tro_spe/child_tro_spe_002

植草学園大学・短大 特別支援教育研究センター
障害者支援を学ぶことは、すべての支援の本質を学ぶことです。千葉市若葉区小倉町にキャンパスをもつ植草学園大学・植草学園短期大学は、一人ひとりの人間性を大切にした教育を通じて、自立心と思いやりの心を育むことにより,誰をも優しく包み込む共生社会を実現する拠点となることを学園のビジョンとしています。特別支援教育研究センターは、そのビジョンを推進するため、平成26年度に創設され、「発達障害に関する教職員育成プログラム開発事業」(文部科学省)の指定を受けるなど、様々な事業を重ねてきています。現在も公開講座を含む研修会やニュースレターの発行なども行っています。                                     tokushiken@uekusa.ac.jp

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