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Lost and found
実家のネコをダシに使ってはいけないと何度も思っているんですが、ごめんなさい。可愛いので。
どうやって生きるべきか、みたいなことをね、相変わらず考えて生きているんですけれども、相変わらず色々と模索していますね。
いつだったか、僕らはこのコロナ禍で人生の浪費時間に入っているみたいな話を書いたんだけれど、やっぱりどうしたってそういう状況にあるのは変わりないなと思うこともあるわけね。直接人と会えない状況で、直接会えていた時期と全く同じコミュニケーションが取れるかといったらそうではないし、そことイーブンな関係性を構築できるかって言ったら絶対的にそうじゃないと思うのね。
じゃあ当たり前の世界が戻ってきたらどうやって再構築していこうか、とか、その世界でできることはなんだろうか、と、色々想像して1年が過ぎた。もっとも、半ば色々不安はあったものの1年も続くと思っていなかったしね。
だけど、実際に1年続いてしまうとある種の慣れや経験値みたいなものもあるし、「コロナ禍」という特殊な状況におけるガラパゴス的なルールやメソッドみたいなものも生まれている気がする。わかりやすいところで言えばキープディスタンスってそういうことだよね。
明文化されたルールがないいま、求められているのは個々のリテラシーだとか気遣いだと個人的には思っていて、声なき声のようなものをあげ続けて生きてきたけれど、正直なところ世の中はそんなに善意に溢れていないよなってことも十二分に思い知らされている。ある種のところ、そういった声自体がオルタナティブというか、世界に対するアイデンティティの主張みたいなところで、多分に自己顕示していたのかもしれない。
で、当たり前の世界が戻ったらという話に戻るんだけれど、1か月前くらいに細美さんがラジオで「前の世界に戻ったらっていう仮想は、結局コロナ禍を再通過しなきゃいけない世界だから、前の世界の戻るよりもこれからの世界をどうアップデートしていくかだよな」みたいな主旨の話をしていて。なんていうか、それはそうだとわかっていたけれど改めて人に言われると新鮮な気持ちになるなあっていう一言だったのね。だってさ、僕らは阪神の震災もニューヨークのテロも東日本の震災もそうやってアップデートして、歴史の一コマとして、学ぶべきところからは学び、忘れるべきところからは忘れて生きてきたわけじゃない。
そう考えるとこのコロナ禍だって、本当に歴史の一コマに過ぎないと思うんだよね。大局的に考えるのはすごく難しいし、当事者にとっては辛い状況であることは変わりないんだけれどね。以前も書いたけれど、学生にとっての1年や2年と大人にとってのそれは全く違うしね。そういう尊いものが犠牲になっていい理由なんてどこにもないのだけれど、だからと言ってこれは一市民のレベルでコントローラブル無問題じゃないからね。
規模の大きさは違えど、人類は幾多の困難にぶつかってもこうやって連綿と生き抜いてきた事実がある以上、そういうことを理由にいろんなことを諦めていいわけでもないよなって、そうやって拳を振りかざしていくことがロックなんじゃないかな?って思うんだ。それは、無鉄砲に、無秩序に、無計画に何かを反骨することとは違って。
鬱憤は溜まる毎日だし、必要善ではないことに違いないんだけれど。それでもこの状況じゃなければ得られなかったかもしれない感動や気付きを、例えば10年後20年後にも自分の心に残していけるような歩みをしていきたいなと、そう思うんだよね。
クサクサしてしまう1日があったり、この状況がなければ進んだかもしれない人間関係がどれだけあっただろうか。って思う毎日なんだけれど、ここにもそうやってもがいている人間がいるんだよって、毎度ながら誰かの心に届けばいいな。そして、そういうことを音にのせて歌えるようになれた時に、そこから見える世界はどんなものなのだろうって思いながら明日も生きていくよ。
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