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巨人の肩に乗って「白」を見つめる

どうも。
ブランディングパートナー光君の代表西村優一です。

タイトルにある「巨人の肩に乗る」というワーディングは、中世フランスの哲学者ベルナールを端緒として成立したものらしく、また、かのニュートンも書簡において使っているのが有名でして、なかなかどうして教訓に満ちた表現だと思うのです。

私が哲学科出身だからでしょうか、お世話になった教授陣がよくこの表現を使っていたのを懐かしく感じますが、とにかく広大無辺の世界において事物の本質をしっかと見据えようとするとき、ああ言い得て妙だなと、毎度思わせてくれる慣用表現というのはありがたいものです。

そういうわけで、今回は白(shiro)について、巨人の肩に乗って見渡してみようと思います。

まずは巨人のご紹介。
武蔵野美術大学教授であり、日本デザインセンター代表、稀代の天才グラフィックデザイナー原研哉。

デザイン界隈の人なら知らぬ者はいない、かの『デザインのデザイン』の著者でもあります。
私は畑違いの人間なので寡聞にしてついこの前まで『デザインのデザイン』を知らなかったのですが、親友のアートディレクターに勧められて読んでみたところ瞠目、瞠目、また瞠目という始末、なんともはやこの本を読まずして広告代理店で働いていたことに寒気を感じるほどでした。

谷崎潤一郎『陰翳礼讃』を彷彿させる、日本に向けられた審美眼と鮮やかな解剖の手捌きは圧巻の一言、それはもう筆舌に尽くし難い感慨なのですが、なかんずく諸賢の興味をそそりそうな一節を。

日本文化のシンプル志向や、空っぽの空間にぽつりとものを配する緊張感はアジアの中でも特殊である。他のアジア地域は装飾ひとつとっても高密度で稠密なディテイルを持つ。しかしながら日本は一転して簡素で空っぽをよしとする発想がある。「数奇」とか「寂」そして「間」などというセンスの土壌は何なのか。それらは何に起因するのか。そういう問いに対しては長い間、納得する答えが得られないままであった。その疑問がこの九〇度回転させた地図を眺めるうちに霧消していくように感じられた。別の言い方をすると、腑に落ちたということか。様々なルートから多様きわまる文化を受け止める日本は相当に煩雑な文化のたまり場だったのだろう。それら全てを受け入れ、混沌を引き受け続けることによって、逆に一気にそれらを融合させる極限のハイブリッドに到達した。すなわち究極のシンプル、つまりゼロをもって全てを止揚することを思いついたのではないか。何もないことをもって全てをバランスさせようという感覚に到達したのではないか。日本を最下端に配したユーラシア大陸を眺めるとそんなふうに納得できるのである。
日本の美意識は、辺境から世界を均衡させる叡智として育まれたのである。アジアの東の端というポジション、そこに育まれた独特の文化的な感受性、そして近代化に向かう過程で経た厳しい経験を背景に冷静に世界に向き合えるというスタンス。それらを合せ持つのが今日の日本であるはずだ。そういう場所にせっかく生まれたのだから、僕はそこに住んで世界に耳を澄まそうと思う。

原研哉『デザインのデザイン』

世界地図を大胆に回転させるダイナミズムによって人類の文化的営みを極東の島国に収斂させるアイディアに、回転しているのは私の眼球のほうではないかと思うほど。
ここで言及される日本文化を象徴する空っぽの空間は、原氏の著書『白』でさらに敷衍されていきます。

光の色を全て混ぜあわせると白になり、絵の具やインクの色を全て引いていくと白になる。白はあらゆる色の総合であると同時に無色である。色をのがれた色である点で特別な色である。別な言い方をすれば、白は色であることにとどまらない。色をのがれた分だけより強く物質性を喚起させる質感であり、間や余白のような時間性や空間性をはらむものであり、不在やゼロ度のような抽象的な概念をも含んでいる。

原研哉『白』

唸らずにはいられない、白の真骨頂。

すべてそこにあり、なにもそこにない。
存在と不在の両極あるいはあわい。

単に背景として白を見るともなく見ていた以前の私には回帰できないほど、鮮烈に白を刷新していく原氏の筆致が憎い。
否、濁った眼球で白を見ていたこれまでの私がとち狂っていたのだと理解させられる、と言ったほうが適切かもしれません。

諸賢の愛してやまない哲学者カントは、人間の認識の形式として時間と空間を提唱していますが、それらをイメージするときですら、なかんずく空間のほうを描こうとすればするほど、そこに立ち現れてくる白の逃れ難さに驚かされます。
白を捨象することの難しさ!

私たちが世界を認識する際、その認識に最も寄り添ってくれているものこそ、白ではないでしょうか。
色彩であり空間であり、そして虚無でもある。
こんなに近くにあるのにいつまでたっても手中に収まってくれない、頑是なくも成熟したミステリアスな白。

思えば、ずっと黒だと思ってきた例の観念も、実は白なのかもしれません。
そう、死の観念。

夜のイメージに引っ張られて黒を印象するのか、それとも土に帰るというメタファーに喚起されるイメージなのか、とにかく死は黒に縁取られがちですが、よくよく考えてみると元来その役目は白が引き受けていたように思います。

たとえば紅白。
ルーツは源平合戦で源氏が白旗、平氏が紅旗を掲げていたことらしいですが、一説では紅は赤ちゃんの出生を、白は白装束の死や別れを意味するとも言われています。
すこし逸れますが白装束を纏うのが死者で、喪服を纏うのが生者というのも勘所かもしれません。

たとえば毛色。
黒髪は若くてエネルギッシュな印象を与えますが、白髪になっていくと老いや死を連想させます。

たとえば骨。
自然界に放っておけば私たちは白骨化します。
身体の各所を通り支える骨が白骨と呼ばれるのもどこか意味深です。

白は生命の周辺にある。骨は死に接した白であるが、生に接する「乳」や「卵」も白い。授乳は動物にとって重要な営みであり、親の生命を子に渡していくような行為である。この乳が動物も人間も共通して白い。その中には命を育む豊富な滋養が含まれているわけで、僕らが「乳白」と呼ぶ時の白には混濁した有機物のイメージがある。乳の味は「乳白」の味であり有機物の味である。乳首からしたたり落ちる生命の糧が白いということは実に興味深い。
卵もその多くは白い。白い鳥の卵が白いのではなく、青い鳥の卵も、黒い鳥の卵も、さらにはワニの卵も蛇の卵もほの白い。その白の中に現実の生命が宿り、それがあの世とこの世の境界としての皮膜である卵の殻を割って出てきた時には、もはや白ではなく動物の色をしている。生命としてこの世に誕生した動物は既にカオスに向かって歩み始めているということだろうか。

原研哉『白』

原氏は死と生を対照的に捉えることをあえて選択していないように感じられます。
生命のあわいとでも言いましょうか、そこに白が介在しているというイメージは腑に落ちます。

私のごとき浅学非才な人間には、生と死、存在と非存在、黒と白といった二項対立のわかりやすさに安住してしまう嫌いがあり、どうにもそれは原氏のイメージとは重ならないように感じます。
誤解を恐れずに言うと、好対照の生と死ではなく、グラデーションとしての生命とそのあわい、のような具合に境界がぼんやりと滲んでいくイメージでしょうか。

そもそも死のような神秘的かつドラスティックで、ときにデモーニッシュな概念を生と対置させるのは過剰なのかもしれません。
実存としての私たちが常住坐臥ふれている生命と、その始まりや終わりの転瞬としてのあわいをイメージすれば事足りて、生前や死後のような語り得ぬものについて語ろうとする行為はどこか詐称のにおいすら感じます。

とまれかくまれ、白は生命のあわいを彩っています。

非常に個人的な話柄で恐れ入りますが、ちょうど私が20歳のとき、走馬灯を見ました。
親兄弟や友人など人生の中核に存在した人々が流れていくその後景は、ぼんやりと、しかしたしかに白でした。

私の全身が死を迎える前に存在としての集大成を描いたイメージの塊のなかですら、時間や空間が数学的な次元を超えたその特異な概念のなかですら、白はたしかに後景を彩っていたのです。

閑話休題。
いったいどこからどこまでが閑話だったかはさておき、白という色にまつわる色彩、空虚、あるいは生命のあわいといったテーマはブランディングの領域においても肝要なものだと思います。

白は単に色彩としてだけじゃなく、空白や余白、一や零、存在や非存在、あるいは死生観を象徴するものとして、ゆたかな表現の可能性に満ちた概念ではないでしょうか。

さてさて、白や黒について思いを馳せたついでと言ってはなんですが、前述の『陰翳礼讃』から一節を引いて、今回はここまでにしておきます。
複雑微妙な色彩としての陰影に、白や黒にとどまらない生命のカオスもとい美の真髄を見るというのも趣深いものかと。

私はしばしばあの障子の前に佇んで、明るいけれども少しも眩ゆさの感じられない紙の面を視つめるのであるが、大きな伽藍建築の座敷などでは、庭との距離が遠いためにいよいよ光線が薄められて、春夏秋冬、晴れた日も、曇った日も、朝も、昼も、夕も、殆どそのほのじろさに変化がない。そして縦繁の障子の桟の一とコマ毎に出来ている隈が、あたかも塵が溜まったように、永久に紙に沁み着いて動かないのかと訝しまれる。そう云う時、私はその夢のような明るさをいぶかりながら眼をしばだたく。何か眼の前にもやもやとかげろうものがあって、視力を鈍らせているように感ずる。それはそのほのじろい紙の反射が、床の間の濃い闇を追い払うには力が足らず、却って闇に弾ね返されながら、明暗の区別のつかぬ昏迷の世界を現じつつあるからである。諸君はそう云う座敷へ這入った時に、その部屋にただようている光線が普通の光線とは違うような、それが特に有難味のある重々しいもののような気持がしたことはないであろうか。

谷崎潤一郎『陰翳礼讃』


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