戦後教育を斬る!!(憲法夜話2)⑦
日本には「国民」がいなかった!!
すでに述べたように、近代国家とは「民族」の存在を前提にする。
近代国家とは、民族国家である。
ところが、この時代の日本に「日本民族」は存在しなかった。
これではいくら日本の産業を近代化し、軍備を西洋流にしようとも、日本は近代国家になれない。
日本国民を作らなければ、どうしようもない。
そのことに明治の元勲は気づいた。
そして愕然とした。
この当時の日本列島には、言うなれば二種類の人間がいた。
一つは下流武士を中心とする、尊王思想を抱いた日本人。
言うまでもないが、彼らが明治維新の立役者であり、原動力となった。
もう一方の「日本人」は住民の大多数を占める農民であり、町人であった。
後者の日本人には、自分が「日本人」であるという自覚もなければ、愛国精神もなかった。
そのことを示す例は枚挙にいとまががない。
幕末の元治元年(1864)、率先、攘夷を実行に移した長州藩に対して、英米仏蘭の四カ国連合艦隊は攻撃を行ない、馬関砲台を占拠した。
この悲運に接したとき、はたして当時の長州の庶民はどうしたのか。
民族国家の国民だったら、絶対に考えられないような振る舞いをした。
こともあろうに、敵である外国の水兵たちに手を貸し、自ら進んで馬関の大砲撤去、つまり武装解除を手伝ったのである。
武士が必死になって夷狄(いてき 外国人)と戦っているのに、庶民は進んでその敵に協力していたというわけだ。
あの丸山眞男氏もこのことを評して「なんたる光景!!」と憤慨している。
実はこの時代、武士と庶民との間には一体感がまったくなかった。
これは何も長州藩に限ったことではない。
たとえば戊辰戦争の折、徹底的に官軍に抵抗したことで知られる会津藩においても同じであった。
薩摩・長州を中心とした東北征伐軍に対して、会津武士はもちろん、その子弟、妻女に至るまで命を捨てて徹底抗戦した。
白虎隊の悲劇はあまりにも有名である。
ところが、その会津藩士の戦いの間、庶民はいったい何をしていたか?
会津藩の悲劇など、どこふく風。
自分の生命と財産を守ることだけにしか関心を持たなかった。
中には、官軍に対して協力した者さえ少なくなかった。
この様子を見た板垣退助(のちの自由党総裁。自由民権運動で有名)は「一刻も早く国民国家を作らねばならない」と思ったようである。
ここまでは幕末の例だが、明治維新になっても同じである。
幕府が倒れ、新政権が作られようとも、庶民の生活も意識も変わらなかった。
つまり、日本はまだ二つに分裂していたままであったというわけだ。
ナポレオンの強さは「国民軍」にあった
明治初頭、「一つの日本」は存在しなかった。
日本はまだ国民国家ではなかった。
何としても近代国家になる必要に迫られた明治政府にとって「国民の創生」は急務であった。
国民なくしては近代国家にはなり得ない。
民主主義はもちろんのこと。
近代資本主義になるのだっておぼつかない。
近代的軍隊もまた、国民の存在を前提にする。
そこで明治政府は死に物狂いで国民教育を行なうことにした。
日本全国、津々浦々に暮らす民に「自分は日本人である」という意識を定着させる。
近代日本の命運は、まさにその一点にかかっていたと言っても過言ではない。
明治政府が行なった、超特急の国民教育。
その成果は見事な成果を収めた。
いや、奇跡的な成功を収めたと言うべきであろう。
戦争の強さは、民族国家の度合いを測る有力な尺度である。
たとえば、よく知られた例で言えば、ナポレオンの軍隊。
ナポレオンの陸軍は当時のヨーロッパを文字どおり席巻した。
ことにナポレオン戦争の前期、その強さは圧倒的だったと言える。
その理由は彼の軍隊が「国民軍」だったことによる。
フランス革命によって、フランスの庶民は「フランス人」になった。
フランス共和国は「おらが国」であるという意識が広く浸透し、国民軍の中には「自分の命を賭けてでも祖国を守る」という空気が充満していた。
これに対して、一方のオーストリアやロシア、プロイセンはいかに。
国民意識はフランスのように広がってはいなかった。オーストリアやロシアの軍隊は王やツァーリ(ロシア皇帝)の軍隊であって、その兵隊はいやいや従軍していたか、でなければ、カネや戦利品目当ての者ばかりであった。
これでは最初から、勝負あったと言うべきであろう。
しかも、フランス軍には軍事の天才ナポレオンがいるのである。
つづく
※ この記事は日々一生懸命に教育と格闘している現場の教師の皆さんをディスるものではありません。
【参考文献】『日本国憲法の問題点』小室直樹著 (集英社)
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