人が無意識に「自由」から遠ざかる理由
人はこの世に生を受けてから様々な制約の中で生きている。
日頃何気なく生きている中で、細部まで考えを思い巡らすと
”生物学的な制約”から”社会的な制約”まで幅広く様々なルールや規則、法の中でヒトは生かされていることに気づかされる。
歴史を振り返ってもこうした多くの制限の中で、人間は”自由”と言う旗を掲げ多くの革命を起こしてきた。
そんな”ヒト”が、一見自由を求めているように見える行動の中で、
自ら自由では無い「不自由」の方向へ歩みを進めていると言うことが多々あるのではないか。
(※前提として自由とは不自由(制約)が存在することにより発生する。)
■自由とは何か
そもそも自由とは何か。
何からの干渉も受けず束縛のない事柄。
辞書で調べると概ねこのような表現になる。
(時間や距離などの物理的な拘束やトラウマや自己肯定感などの精神的な拘束など多くの要素を含む。)
有名な話にヘーゲルの自由概念と言う話がある。
「人間の欲望の本質は自由である」
ヘーゲル:ドイツの哲学者[1770~1831]
■自由と幸せの関係
ヘーゲルの話を見ても、人間の幸せ(欲望を満たすこと)に”自由”は大きく関係してくると言える。
ある事柄からの解放や自由選択における意思決定など、どれも自由は人に幸せをもたらしてくれる要素があるように感じる。
しかし一方で、本当の意味での自由、社会的にも申し分の無い自由を手にした人々が皆高い幸福感を得ており幸せの絶頂にいるだろうか。
金銭的にも何不自由なく世間一般的に「成功者」と言われる人でも何か満たされず常に孤独感を感じている人の話はよく耳にする。
つまるところ、自由と幸せについて相関関係は充分あるかもしれない。
しかし一方でそこに因果関係は存在し得ないように感じる。
(自由は幸せ→○、幸せは自由→×)
あくまでも、自由とは幸せを感じる上での十分条件であり必要条件ではない。
■幸せの語源
「幸せ」と言う漢字の成り立ちは非常に面白い。
端的に言うと、象形文字の手枷(手錠)を現した字である。
(諸説あるがここでは割愛致します。またの機会に様々思い巡らせたいと思います。)
もしかすると人間の根本的な幸せの感じ方には、一定の制約や拘束があることにより、幸せを感じられるようにプログラムされているのではないだろうか。。
例えば、野球選手になりたいと言う高校球児が青春時代の貴重な高校3年間の全てを「野球」と言うスポーツに時間を費やす。
一見、自分の望むことを行える自由があるように感じるが、自ら上下関係が厳しく、髪型は坊主にし、肉体が許容できる以上の運動を行うと言う大きなトレードオフをしている。
だが、そんな中でも多くの野球球児の瞳は輝き美しい。
■自由の感じ方
自由の感じ方について、人により様々な感覚があると思うが、自由という言葉を測る上で、比較対象として自由でない事柄が引き合いに出される。
例えば、社会主義的な考え方から、より自由主義へと変化をして行く中で、
資本主義という名の「自由市場」が生まれ、今まで蛙の子は蛙のような職業選択の自由がない社会から職業の自由が始まった。
ただ人間は、生きて行く上で制限がある環境下に自らを持って行くことがプログラムされている。
もちろん、様々な背景から一定の秩序を求めるためにはある程度のルールや法が必要になってくる。
むしろ、人と人とが何かを働きかけようと思うとそこになんらかの制約が発生する。
■結局何が言いたいの??
結局、人間は生きて行く中で一定の秩序を保つため、ある程度の制約(束縛)なしでは生きていけない。なぜなら、完全にフリーであるということは何からも相手にされず無視されている状態と変わらない感覚になるからだ。
自らの”選択の自由”から生まれた「制約」や「不自由」については不思議と人間は許容でき、その中で幸福感を得ることができる。
ユダヤ教の有名な教えに「守らなければならない事を意識することの大切さ」を説いた文章がある。
要するに、ルールや戒律を日々守れていることに価値があり、何も意識していないで生きていることは自己へ与える”効力感”や”肯定感”に大きく関わるということだ。
また一方で、言い換えるのであれば、「自由になるということは責任を負うこと」になる。そういった責任から逃れるためにも、誰かが敷いたレールの上を歩く方が楽だということで、”不自由”に無意識に歩みを進めてしまうのではないだろうか。
日頃から多くの制限や外部的制約のなかで生きていることを改めて実感し、そのような環境下で日々生きている自分を褒めてあげ欲しい。
最後まで読んでいただき本当にありがとうございます。
これからもよろしくお願い致します。