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ケストナー「飛ぶ教室」
息子たちが幼い頃は足繁く図書館に通った。
家のそばの図書館は大きく子供の本だけでひとつの階を占めていたから息子たちの年齢が低い時は図書館と言えば児童書のコーナーで、自然と自分自身の為に児童書を借りていた。
新旧沢山の本が置かれている偉大な場所というのはなかなか他ではない。行けば旧友に出会った気分にもなる。そしておとなになって再読する児童書とは当時と違った感慨がある。
私が小学生時代夢中になった作家のひとりがエーリッヒ・ケストナーだった。
子供の頃の私はケストナーが児童書を書いていた時代背景も知らず単純に生き生きとした描写と流れるストーリーに魅了されていた。
特に私の子供たちは男の子なので小学校の高学年になったら「飛ぶ教室」を読んで欲しいなと思っていた。
しかし親に反発する年頃になってはそんな言葉は耳に入る訳がなかったが。
「飛ぶ教室」は思春期の少年たちの群像劇として読める。
少年たちはまだ幼く理性と野生のどちらにも揺れ動く者として描かれている。
数年前の息子たちを思い出してみても分かるのだが思春期というものは混とんとして自分の気持ちを持て余している。
純粋培養され善悪を区切ってこれは良くこれは否と決めて理性で欲望を抑えてしまうと抑えられた欲望が暴走した時大変なことが起きる。
家庭内暴力やいじめ問題。昨今深刻なものに発展しているこれらの問題の中には無理やり捻じ曲げられてしまった感情の行く末の結果であったりするのではないかと思う節がある。
話を物語に戻す。
喧嘩や飛び降りて足を骨折するけがのシーンが「飛ぶ教室」の中では出てくるが思春期の少年たちのエネルギーの爆発が描かれている。少年たちは感情を下手に押さえつけることなく発散させて自分たちできもちを納めさせている。
少年たちには正義先生、禁煙先生というふたりのおとながいる。
おとなでもこどもでもない思春期にはふたりの人物が必要なのだと描きながらケストナーは言っている。
正義先生はこの世界の均衡として、良識のあるおとなとして描かれる。
彼はこどもの味方であり例えば貧乏な特待生マルチンがクリスマスに帰省が出来ないことを周囲に言えず寂しさを胸に秘め気丈にふるまっている中でハタと気がつきマルチンに旅費を贈る。しかし同情してともに泣いてしまう様なことはせずあくまでマルチンの自尊心を傷つけない様に接する。
禁煙先生は車に住み、週末レストランでピアノを弾いて生活している。
彼はおとなはこうあるべきというところから逸脱した存在として描かれている。誰からも見捨てられることで圧倒的に孤独であり、この世界と隔絶して描かれる。
だからこそまだ何者でもない少年たちから受け入れられるのだ。禁煙先生はこの世の良識より自分自身の求める正しいと思う生活をしている。
少年たちにとってはなんでも相談できるおとなとは旅費を贈ってくれる正義先生ではなく、禁煙先生の方なのだ。
さて前に戻るがケストナーがこれらの児童書を書いていたころ世は第二次世界大戦へと向かっていた。
ケストナーは「動物会議」などを読んでも分かるが世界平和を掲げた作家でありナチスドイツによってケストナーの書物は焼かれ出版禁止となった。それでもこの作家は暴力に屈せずアメリカなどに亡命せず(彼は既に有名な作家であった)ドイツ国内にとどまった。
この行動からもケストナーがいかに芯が強く暴力に屈しない人物であったか伺える。
ただケストナー自身のことを知ったのは成人してからで、鑑みながら作品を読むとまた違った感慨を受ける。
自分にとって印象に残っている児童書は大人になってから再読して欲しいと思う。きっと新しい発見を得るだろうから。
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