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絵とエッセイ㉙:思慕と夕景にまつわる話

(無料公開2025年2月27日(木)~3月6日(木))

強風で手が悴む。
2月はこんなに寒いのかと雲一つない空を見上げて思う。

鳥の糞が目立つ。
やはりこまめに来た方が良いのかな。
家からそれほど遠くはないが、毎日来れるほど近くもない。
1年の内に四回、墓参りを欠かさない。
しかし、寒い。
夏に逝った二人には、寒い季節ではないのかと・・
墓石を拭きながら、そんな事を思う。

二月の中旬、最寄駅から送迎バスに乗り、両親が眠る墓地についた。
母は十年以上前に、父は三年前に、暑さが厳しい残暑の頃、この世から旅立った。
余り穏やかと言い難い、しかし、人の終末、その人がどんな気持ちでいるなど、血の繋がっている子供であっても理解する事は難しい。
「家族であっても、同一人物ではないので100%の理解はあり得ない」
そんな当たり前の事に気が付いたのは、三年前。
もっと早くに、気が付いていれば・・後悔と共に泣いたのが、つい二年前の事だった。
ドラマにある様な家族の団欒というのはよく覚えていない。
あったのかも不確かだ。
どんなものかも良く分からないからだと思う。

記憶にあるのは、怖い母と頼りない父。
両親の涙と自分の居場所が無いという不安に彷徨った日々。
「自分は生まれてきてはいけなかったのか?」
高校時代に思い悩み、太宰治を読み漁った事もある。
家族が壊れる恐怖から、逃げるように家族から距離をとり、自分の居場所を【制作】の中に決めた。
それから数十年。
自分の描く絵は「心象画」
心の風景を描く、生き方に影響される表現の形。
自分の描く絵と気持ちを意識してから、必ず両親に共通する風景が思い出される。

母が旅立った夕焼け。
父と離れると決めた夕刻。
昨日の事のように思い出される風景。
なので、暫く夕日を見るだけで泣く日々があった。
後悔に苛まれて息をするのも苦しく、毎日心の中で当時の記憶をなぞる事もある。
「失ってはじめて気が付く」
そんな事を自分が体験するなんて思いもしなかったし、思った以上に深い後悔を自分に与える事を痛感しながら眺める風景なのである。

「お前は絵でやっていくんだね」
母からそんな言葉を聞けるとは、思いもしなかった。
物心ついた時から、母は怖い印象が強い。
帰るのが遅くなったり、抜けた乳歯を広場に捨ててきたと言えば「見つかるまで家に入れない」と探しに行かされる事があった。
とにかく厳しく怖い印象が強い。

恐い印象と共に【我慢強い人】という印象もあった。
とにかく弱音を吐かない。
癌が見つかり、抗がん剤治療で苦しい最中でも「辛い」という言葉を聞いた事が無かった。
【怖い人、我慢強い人】
そんな人が一度だけ弱音を吐いた。

「足が上がらない」
闘病生活の中で祖父の法事に行きたいとせがまれ準備を重ね、上野に向かう最寄り駅の前についた時だった。
抗がん剤治療の影響で通常より免疫が落ちている。
医師の許可をもらったものの、体調を崩したかと声を掛けると、そんな答えが返ってきた。
駅の階段ではなく、駅に入る5センチの段差が上がれない。
寝台列車に乗る長旅なので、行かない選択肢もあった。
しかし、頑なに母は故郷に帰るという。
「親戚にも誰にも言わず、支えて欲しい」母の身体を支える私にそう言った。母に何かを頼まれる事はあまりない。
強い人であるけれど【頑固】な人でもあったのだ。

話さずとも衰弱した母を見れば、察する事が多かったのか、叔母の力も借りて何とか祖父の法事を終える事が出来た。
痩せてはいたけれど、母が少し満足していた様に見えたのが不思議だった。
「悔いのない生き方を・・」
私が良く音声でも文章でも書くこの言葉は、母の最期の旅から実感した言葉だ。

その数か月後に母はこの世を旅立った。
脈もとれないのに意識があり、点滴を自分の手で引き抜いて「もういい」と自分の意志を貫いた。
医師も、もう手の施しようが無いと家族に告げた。
頑固な人だから、強い人だから、もうどうしようもない。
母の瞼が閉じた頃、ちょうど八月の夕日が病室に差し込んで、悲しいながらその幻想的な風景が今でも脳裏に残っている。

「お前の言っている事が分からない」
目の前が真っ暗になったのを覚えている。
その言葉で、この人と分かり合う事は出来ないと痛烈に感じた。
ただ、話を聞いてもらう事が、こんなにも難しい事なんだと実感した言葉だ。

父は一度、鬱病になり辛い闘病を経験した。
回復後に何か思う所があったのか、人が変わったように明るくなった父とは反対に、私は母の死後、ストレスで絵が描けなくなり、仕事もできず鬱病になってしまった。
自分の経験もあったのか何度も励ます言葉を掛けてくれた。
「同じ病気を経験しているから、分かってくれる」と思っていたのに、胸の苦しさを聞いてもらおうと話したら・・・そう言われてしまったのだ。
その言葉は、鬱病を克服しようとする気持ちを深くえぐり、父に対する信頼も木っ端みじんに砕けるのに十分だった。
「親だからわかってくれる」そんな淡い思いは幻想なんだと、理解した瞬間。
「強くならないと生きていけない」
しかし、鬱病は回復したけれど、今度は生きがいにしようとしていた介護職を足の関節障害で辞める事になり、何度目かの挫折を経験した。
何度経験しても挫折というのは、独りで抱えるには重たいものだ。
しかし、自分の気持ちを誰にも話さない様に決めていたので、歯を食いしばってリハビリを重ねた。

「独りで生きていこう」
何時しかこの杖がとれたなら、自分の足で生きていけるようなったなら、離れようと、父と話す笑顔の裏でそんな事を考えていた。

絵が描けるようになり、ペン画で展示活動をする日々。
展示の回数も増え、個展も三回目の開催が決まっていたその年に、父の様子がおかしくなった。
もう高齢である、不調がきっかけで入退院を経験するようになり、前向きだったその人は、家に閉じこもるようになってしまった。
外見的に若く見える事、【健康】それが父の自慢。

だから、身体が衰えるという事実は、父にとって受け入れがたいものだったのだろう。

「不安で眠れない」と医者に掛かるようになった。
「独りでいるのが怖い」と仕事先の私に何度も電話を掛けてきた。
多くて一時間に20回近く着信があった時もある。

三回目の個展最終日に、救急隊員から電話があり、胸が苦しいと父が搬送されたと聞いた。
死ぬ思いで駆けつけた時「家に帰りたい」と何事もなく栄養剤の点滴を笑顔で受ける父を見て、絶望感を味わった。
(私の不在が、父を不安にさせてしまう)
心の病気とは、何とも表現しがたい感情を抱かせる。
「この人から離れたいと思っていたけれど、今は離れてはいけない」
この人と向き合わなくてはいけない。
私が支えないとこの人は生きてはいけない。
【手を振りほどかれた人の手を私は、掴まないといけない】
コロナ過での在宅介護で、そんな覚悟を私に抱かせた。

しかし、向き合おうとした声は父の耳には届かず、支えようとした思いは忘れられる日々。
乞われるばかりで、話が通じない。
精神的に追い込まれ、私の身体も悪くなっていく。
自分の限界を知り、そして父が入院。
「自分は何もできなかった」
入院手続きを終えた時はちょうど夕刻で、病院脇の跨道橋が黒く染まり、金色に空を染める夕焼けと相まって、自分の無力さに心がえぐられた。
最後まで父に何も届かなかったその絶望感は今でも振り返ると胸が痛い。

夕日を見ると胸が苦しくなる。

しかし、夕焼けが綺麗だと暫し足を止めて魅入ってしまう。

楽しい記憶は、その風景ない。
なのに、私は夕日が好きなのである。
思い出すのは仄暗い、明るい色とは遠い過去。
自分を振り返る事で考え方も変わったのなら、そんな過去の記憶も捨ててしまえばいいのだが、そう簡単にできないのも事実である。
過去は無かったことにできない。
その日々が私を作り、その過去が大事に思える時があるからだ。

父が亡くなってから、家の管理も私に引き継がれ、相続というものをしなくてはいけなくなった。
何時しか出ていきたいと思った家を管理するというのはいささか複雑だが、放棄する気にはなれなかった。

家を相続するには、家主の経歴を遡らなくてはいけない。
生まれてから亡くなるまで辿って書類を制作する必要があるのだ。

思えば父から幼少の話を聞いた事が無かった。
あまり本人の口から語られない昔を調べるようで気が引けたが、そんな事務的な作業が思わぬ邂逅を生むことがある。

「私は父に愛されなかった」
そんな考えが多感な時期から心に留まり、話を聞いてもらえなかった事で、より一層傷を深くしてしまった。
そんな父と覚悟して向き合おうとした時に、自分の気持ちを人に伝えるという事は、なんと難しく、乞えば乞うほど虚しくなる事なのだろうと虚無感に苛まれた。
「分かり合えずに、逝ってしまった」
書類上で父の過去を遡る中で、年数回の墓参りを、暑さ残る八月に行った時の事だった。
気温は38度、黙っていても汗が流れ、墓石を拭く布が気持ちよく感じるほどだった。水をかけ、乾いた布で拭く。石碑の左脇に母と父、そして祖母の名前が刻まれている。

父の母親。
何度か会った事があるが、あまり仲が良い印象がしなかった。
何か距離がある・・会話もそんなになかったように記憶する。
「父もあまり親と仲が良くなかったのかな」
花を生け、線香を上げながら不意に思った。
レンタルの墓掃除の道具をかたずけて待合室で涼を取る。
酷暑の昼間、墓参りに訪れる人は少なく、お盆も過ぎていたので閑散としていた。
缶コーヒーを飲んで涼んでいる時に何気なく、父との数少ない会話を思い出していた。不意に何かが引っかかる。

「ああ・・そうか、分からなかったのか」
父親を早く亡くし幼くして親元を離れたと昔に聞いた事がある。
親の愛情を一心に受けること自体が難しい環境だったのではないのかと気が付いた。

母が好きな父だった。
家族が欠けるのを・・その事実を受け入れるが怖い人だった。
母が亡くなってから何年たっても遺品の整理を拒む人だった。
乞う事しか知らず、与え方が良く分からない。
そう思うと私も父と似ているところがあり、長年の「愛されなかった」という澱が一瞬で無くなったような感覚になった。
そうか・・そうなのか・・
「ああ・・私と父は似た者同士か」
自然と口に出した言葉で涙が溢れる。
「今更だ・・」
遅すぎた・・気が付くのが遅すぎた。
もっと早くに気が付いていれば、父ともっと話せただろう。
「独りが怖い」と縋りついてきたその手を払う事もなかったなかっただろう。
その人はもういないのに、確かめる術はもうないのに。
「失ってはじめて気が付く事がある」
後悔が溢れだし、送迎バスが来るまで待合室の隅で泣いていた。

夕日や夕刻は、両親と自分を繋ぐ思い出の心象である。
その風景を見て胸が苦しくなるのは、共に過ごした日々と葛藤と過去が入り混じるからだ。  
その風景は悲しく、何事にもかえがたい。
なので、どんなに悲しくても夕日を綺麗だと思い、いつまでも眺めていたいと思ってしまう。

夕日に共通する色は【橙】【黄】【金】ではないのかと思う。
色彩で絵が描けるようになり、夕刻や夕日を表現する時には必ずこの三色が浮かぶ。
【橙】の暖かさ
【黄】の明るさ
【金】の神々しさ
しかし、私の夕景には【青】や【赤】や【紫】などいろんな色が混じるのだ。自分を振り返る為に色彩心理を学んだ時「色彩は身近で自分の気持ちを把握できるツール」だと教わったように記憶する。

良い思い出が無いのに、夕日が好き。

雨上がりの夕景は厚い雲から夕日の光が神々しく地面を照らす。
昼から夜へ、一日が終わる風景にいろんな思いが混ざっていく。
綺麗な夕日ほど胸がチリッと痛くなる。
母を見送ったその色と父と別れたその風景を辿り、二人を慈しむ。

色彩で描けるようになり、空を描こうとしたら先ず夕日を描いた。
「円窓」という、丸い窓で風景を切り取った直径10㎝の水彩画。
自分の綺麗だと思う心象を描こうと制作した10㎝角のテクスチャーアート「マジックアワー」
ただひたすらに自分で綺麗だと思った夕日を留めたい「円窓」と内側から湧き上がる感覚で描くテクスチャーアートだ。

10㎝角のパネルにモデリングペーストで凪のような凹凸を作る。
乾いたら思いついた色を塗り、光の「金」と雲の「白」をラッカースプレーで吹き付けるのだ。その上からレジン液に着色剤を混ぜて、思うままに色を置いてゆく。
レジンの下で金と白が微妙に混ざり合い、とても綺麗に発色する。
題名を「マジックアワー」と付けたのは、橙から金、紫、紺など徐々に空の染まり方が変わり、太陽の光源もない事から風景がもっとも美しく見える時間の風景であるからだ。

昔の思い出を彩り留める「円窓」は過去と向き合う自分の心。
湧き上がる色で、自在に透明な色を重ねる「マジックアワー」は、私なりの新しい夕景の心象。

人の心とは白黒はっきりつけられるものではなく、いろいろな思いや出来事が重なり合い、答えのないまま過ぎることも間々ある。
何に気が付いても、もう両親は居ないので答え合わせは叶わない。
居たとしても、家族でも個々で考え方は違う。
自分は愛されていたのか、そうでなかったのか?
しかし、それでも親でいてくれたことを今では感謝している。
それぞれの終わりの旅路の側にいて、その姿を覚えているからこそ、新しく芽生える思いもあるだろう。
夕日の思い出が、純粋に綺麗なものになるように。
浮かぶままに描いて、思いを馳せる。

終わりのない制作をこれからも続けていきたいと思っています。


「マジックアワー①」
gallery卯月掲載中


「円窓」⑥10㎝の夕景

両親の事を振り返った詩画集

絵とエッセイ

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卯月螢 /心の風景を描く「心象画」
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