「田嶋家文書」酒井忠次宛佐久間信盛書状の考察

 本稿では、以下の書状について検討してみたい。

「(包紙ウハ書) 酒左/御宿所   信盛」
 猶以先度御馬被懸御意、畏入候、将又拙者江刕留守之刻、御用之事好斎懇ニ申置候、自然之事、可被仰付候、然者先好斎へ貴所より書状にて御理尤候、
先度参候処、御取成故、貴殿御気色能、御懇之儀共本望候、仍御一書之通、信長具申聞候、御存分、先以無余儀之由候、従越国近日佐々一兵衛可罷上候、甲使者種々雖申掠候、被仰聞候通、不浅申分候、於何篇も家康御為可然様ニと無奥底被存候、此等之趣、能々可被仰入候、猶大六可被申候条、不能巨細候、恐々謹言
     六月廿一日     信盛(花押)

(「本光寺所蔵 田嶋家文書」 (1) )

 本書状の内容を確認すると、下記の通りとなろう。

「なお、先だって馬をお送りいただき、恐れ入ります。また、私が江州を留守にする際には、必要なことは好斎(一用)に綿密に伝えておきます。万一のことがあったら、仰せ付けください。そのため、まずは好斎に対して貴方の所から書状にてご説明するのが良いでしょう。
先だって参上したところ、お取り計らいのため貴殿のご機嫌も良く、丁重に扱っていただき大変嬉しく思います。ご書状の通り信長には詳細を申し聞かせ、意趣についてはもっともであるとのことです。越後国より佐々一兵衛が近日戻ってきます。甲斐の使者が様々なことを言っていますが、仰った通り、信用できません。何事であっても家康の御為によいように取り計ろうと心底思っております。これらのことをよくご注進ください。なお、小栗大六が申しますので、詳細は記しません」

 これは織田家宿老の佐久間信盛が徳川家宿老の酒井忠次に宛てて送った書状である。両者は織田・徳川間の外交関係においてそれぞれの取次として活動していたことが判明しており、本書状はその外交関係の一端を示すものと評価できよう。『新編岡崎市史』は発給年次を元亀三(1572)年と推定しており、駒澤大学禅文化歴史博物館の図録『家康を支えた一門 松平家忠とその時代~『家忠日記』と本光寺~』や歴史研究者の平山優 (2) がその年次比定を継承している。しかし、本書状の写真版 (3) およびその内容を考察した上で別の可能性を検討してみたい。

 一点目に注目したいのは「花押」である。本書状の写真版から差出人の佐久間信盛の花押を確認すると、永禄十(1567)~元亀元(1570)年頃の期間で使用していた花押【B型】と判断できる。信盛は元亀三~天正四(1576)年頃の期間で花押【C型】を使用しており、『新編岡崎市史』が唱える元亀三年説では花押の使用期間が合わないことになる (4) 。

佐久間信盛 花押【B型】【C型】の比較

 二点目に注目したいのは「佐々一兵衛」である。佐々一兵衛(主知、良則)は、柴田勝家・丹羽長秀とともに尾張寂光院分領安堵の奉行を務めたり、永禄十二(1569)年七月~八月には岐阜に来訪した山科言継の世話をした織田家吏僚である。また、彼は対上杉氏外交を担当する取次として活動していた人物でもあり、本書状からも外交の使者としての活動が確認できる(「従越国近日佐々一兵衛可罷上候」)。栗原修の研究 (5) によると、対上杉氏外交における佐々一兵衛の活動は永禄七(1564)年九月九日を初見として元亀二(1571)年九月十一日付で上杉氏の越中魚津城代である河田長親へ書状を発給するまで確認できる。しかし、元亀三年における佐々一兵衛の対上杉氏外交に関する活動は確認できず、その役割は息子の佐々権左衛門に引き継がれたと考えられている。

 上記の二点より本書状は元亀三年に発給されたものではないと考えたい。

 それでは、本書状の発給年次を検討してみよう。「将又拙者江刕留守之刻」より佐久間信盛が近江国を拠点としていること (6) 、信盛の花押の使用時期や佐々一兵衛の対上杉氏外交への担当時期から元亀元~元亀二年の期間に発給されたのであろう。しかし、元亀元年六月、徳川家は姉川合戦で幕府・織田方への援軍として参陣しているので書状の発給は不要であったと考えられる (7) 。そのため、本書状は元亀二年に発給されたと考察できる。

 元亀二年に発給されたと考察すると、その背景として徳川・上杉両氏の越三同盟が想定できる。家康は武田氏への対抗を目的として元亀元年八月から上杉氏との同盟締結に向けた動きを加速させ、同年十月には上杉輝虎(謙信)に起請文を出し、武田信玄との断交を宣言した。その起請文には「信長・輝虎御入魂候様ニ、涯分可令意見候、甲・尾縁談之儀も、事切候様ニ可令諷諫候事」とあり、織田信長と輝虎との関係が入魂となるように働き掛けること、織田家と武田家との縁談が破談となるように諫言することを誓約している (8) 。輝虎も同盟交渉において「信長御臆意」は肝心であると考えており (9) 、越三同盟の締結および継続には徳川・上杉両氏とも信長の意向を重視していたことが分かる。本書状のなかで「越国」に使者として派遣されていた佐々一兵衛の活動や甲斐(武田氏)の使者について言及しているのは、織田氏と上杉氏との関係を取り持ち、織田氏を反武田派に引き入れたい家康の意向を信盛が汲み取っていたためであろう。
 しかし、信長としては容易に反武田派を標榜する意図はなかったと思われる。美濃神篦城をめぐる衝突を契機として永禄八年に締結された武田・織田両氏の同盟(甲尾同盟)は、今川領侵攻によって生じた信玄と家康との確執に起因する信長に対する信玄の不信という不安要素を抱えていたものの、信長嫡男・信忠と信玄息女・松姫との婚儀が具体化しているなど継続していた (10) 。信長も元亀三年十月に武田氏が徳川領の遠江・三河に侵攻するまで信玄との同盟関係を疑うことはなかった。ただ、信玄は信長側近・武井夕庵に宛てた書状で家康の讒言を信用しないように信長への取り成しを願っており(「就之例式従三・遠両州可有虚説歟」「侫者之讒言無油断信用候様、取成可為祝著候」)、信長を反武田派に引き込もうとする家康の働き掛けは実際に行われていたことが推察できる (11) 。
 佐久間信盛は、対徳川氏外交の取次として織田方の意向を家康に伝達する使命を果たすとともに徳川方の意見を代弁し、信長に伝える役割を持っていた。本書状のなかで、「甲」(武田氏)からの使者の言い分は信用できず、「於何篇も家康御為可然様」に取り計らうと述べているのは、織田・上杉・徳川の三氏による反武田戦線を構築したいという家康の意向が叶うように信盛が取次として活動することを明言していると考察できる。これは、「取次は、しばしば交渉相手の意見を大名の前で代弁し、一種のロビー活動を展開することがある」という丸島和洋の指摘 (12) と重なる。

 本稿では、越三同盟の締結を背景とした織田氏に対する徳川氏の働き掛けの一環として元亀二年に本書状が発給されたと結論付ける。また、本書状からは対徳川氏外交の取次として徳川氏の意向が叶うように主君信長の意向を超えて活動する佐久間信盛の姿をうかがうことができる。


注釈

(1) 新編岡崎市史編さん委員会『新編岡崎市史 第6巻 古代・中世(史料編)』(岡崎市、1983年)
(2) 平山優『敗者の日本史9 長篠合戦と武田勝頼』(吉川弘文館、2014年)
(3) 写真版は、相田二郎『日本古文書学の諸問題』(名著出版、1976年)から参照した。
(4) 元亀三年に比定されている四月四日付で柴田勝家・佐久間信盛・滝川一益・明智光秀が大和の片岡弥太郎に宛てた書状では、花押【C型】を使用しているため元亀三年四月以前に信盛は既に花押を変えていたと判断した。
(5) 栗原修「上杉・織田間の外交交渉について」(所理喜夫編『戦国大名から将軍権力へ 転換期を歩く』(吉川弘文館、2000年)に所収)
(6) 「十二日に永原まて御出永原ニ 佐久間右衛門被置」(太田牛一『信長記』(池田家本文庫本、岡山大学附属図書館))
(7) 「北国勢の一番家康衆に定らるゝ、廿八日早天に、越前衆姉川を越て、家康とせり合を初む、本多平八衆、大久保治右衛門衆両手一番にかゝり、酒井左衛門、小笠原與八郎二番にかゝり」(『校訂松平記』、大日本史料データベースを参照)
(8) 『愛知県史 資料編11 織豊1』739号
(9) 『愛知県史 資料編11 織豊1』727号
(10) 遠藤珠紀「織田信長子息と武田信玄息女の婚姻」(『戦国史研究』第62号、2011年)
(11) 『戦国遺文 武田氏編』1775号
(12) 丸島和洋『戦国大名の「外交」』(講談社、2013年)210頁


補論

 織田・徳川間の外交における取次の変遷は下記の記事で考察した。

 また、佐久間信盛が花押【B型】【C型】を用いている文書一覧を下記ファイルにまとめたのでご参照ねがいたい(花押の未確認文書を含む)。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集