前のお家から引っ越してあっという間に4ヶ月ほど経った。 雑記も久しぶり。 一人暮らしを始めて間もない頃は時が進むのが遅いなあと思っていたけど、恋人と一緒に住みはじめて日々は着々と前に進んでいる感じがする。なんとなく、置いて行かれているような気持ち。なんでかは分からないけど。 半分切ったキウイをスプーンで食べるのが上手くなったり、コーヒーの文字を見て立ち止まってしまったり、かっこいい車を目で追ってしまったり、自分の些細な変化は毎日あって。それを見逃さずに受け止めたい。 誰か
もうすぐ今の部屋に住んで2年が経つみたいで、感慨深い気持ち。 いまだに人の多さと道の狭さには、げんなりしちゃうけど、京都が好きだなと思いながら生活できたと思う! なんやかんやと、自分が選ぶ居場所を探すために手探りで京都に出てきて、その京都でまたご縁があって引っ越しすることになって。 下手くそなりにも、自分の決断と選択で人とつながれたような気がしてる。 恵まれたことに、寂しい気持ちを抱くことは少なく生活していて。 でも、ごまかしてきたこともたくさんあるなとも思う。 自分の
らんまんが終わった。 私は誰のことを照らせるの?って めっちゃ不安になった。 自分のこういうところがかなり嫌い。 自分の経験や考えが誰かを救えるって どこか傲慢になってたんやね。 つい最近、 職場で「言葉通りにしかできない人」のことの話になった。 その言葉に含まれる先のことまで察して動けないこと。 うまく伝わらないことは、受け手の特性のせいだと、自分も思ってしまうことはあるけど…。 私も「言葉通りにしかできない」ほうなんだろうなと、思った。こころはチクチクしてた。
与えてもらっているものに気付かず あまりにも欲張りだから 神様が環境を調整したのだと思うことにした 欲張りというか 甘いんだと思う どうすれば良いかわからない 23歳になって 蓋をし続けた幼さに直面してる 私はどこだ
嫌なところばかり目についてるのだと思う。 でも 向き合って話をしてくれたり 身体の心配をしてくれたり 与えることが本当にうまい人だと思う。 私は与えられて貪欲になりすぎて 期待と嫉妬で体質も考え方も 少し変わったと思う。 過去はいつでも美しくて それは誰にとってもそう。 輪郭線が曖昧で 自分にとって都合のいい形に変えてしまう。 好きになってもらった私はこんな醜い化け物だったのか、私が好きだった私はこんなに不安に満ちた動物だったのか、どこにいるのかよくわからない。
久しぶりのまとまったお休み。 お盆前くらいから体調を崩していて やっとこさ治ってきたところです。 2人とも体調は万全ではなかったけれど 恋人と鳥羽へお出かけに行ってきた! 友達と一緒に選んでもらった洋服を着たよ。 お守りを身に纏ってるみたいで嬉しかった。 伊勢志摩ライナーは窓が広くて 喫煙所もガラス張りでお洒落だった! 特別な電車に乗る旅もとってもいいね。 暑くて一瞬で溶けたアイスは特別美味しいわけでもなかったけど、外が晴れていて海が綺麗だった感じはこれからもふと思い
研究のときもそうだったけど 「腹が立つ」「悔しい」「悲しい」みたいな 負の気持ちがきっかけにならないと 本気になれなくて嫌になってしまう 朝ドラのらんまんを観てると、ただひたすらにそれが好きで、気になって仕方なくて、本気で知りたい!と思うような気持ちにとても憧れる 情けないことに、本気になるタイミングはいつも全てを投げ出そうとする時 全てを投げ出してやる!!!!と、 鬱憤ゲージがたまるまで だまりこんで素直に言葉を紡げないのは 苦しいことだなあと思う 今の私はたくさん
おとといにふと昔おうちにいた猫のこと思い出した。 小学校低学年の頃、父親が会社の近くにいた猫をお迎えする形で我が家にやってきた。 名前は凛。父親が私につけたかった名前を猫におくることになった。凛ちゃんは野良猫の赤ちゃんで、目に怪我をしてた。 我が家はマンションで狭く、スペースが残ってたのは私の部屋だけ。自分の勉強机のよこに凛ちゃんの拠点が設けられた。 凛ちゃんがくるまで、動物と触れ合う習慣なんて全然なかったもんだから、最初は怖かった。 目が合うと飛んでくるなん
最近は大学時代に関わった人と会う機会が多くて、少し懐かしい気持ちになった。 先輩も同期も後輩も、とても素敵な人ばかりで、奈県の人と環境が好きだったなと今でも思う。 この前、ひとつしたの後輩の子と初めてごはんしてとても楽しかったし、いい意味でびっくりした。 (後輩といいつつ、いつもみんな先輩のような気持ちで接している) 自分がなぜ今福祉職なのかを考えた時、 私はすらすらと言葉にできるのかなって 後輩と話していて思った。 前職の施設でも今の施設でも あまり向上的ではない
帰ってきて知らない間に寝てた。 変な時間に目が覚めてかれこれ2時間ほどぼーっとしてた。 自分に必要なのはこの時間なんだなと思う。 何においても遅いので 人より時間をかけないと反応も理解も習得もできない。 最近を振り返って思ったのは 共有できたらいいことはたくさんあるんだろうけど、私はそれを急がなくてもいいということ。 自分の好きなもの、こと、ひとは、自分の孤独と相性がいいもので、それの全てを必ずしも分かち合わないといけないと思わない。きっといいタイミングがあって、そこ
おみくじをひいたのにびっくりするくらいその内容が頭にまったく入ってこなかった。 うまく過ごさないと。 最近自分が「上手」とか「うまい」という言葉をたくさん使っていて、嫌な気持ちになる。あまり使いたくないのに。 好きなものを純粋に好きという感情だけでみれないとき語れないときが増えていて、その度に頭を抱えている。 自分が自分で何を望んでいるのか、何を相手に求めているのか分からない。こんな大人になりたくなかったのに…とよく思う。 いい子でいたツケがこれなら、誰の言うことも
4月はバタバタとしていたのだなあとしみじみ思う。自分の気持ちを振り返ることすら忘れてた。 異動があって、ガラッと環境も変わり、 ついていくのに精一杯。 月末のGW前、熱はないのに声が出ない咳が止まらないで、大変だった。 自分のお世話もできないことを、子どもと接していて痛感する。 何事も、じんわりじんわりと変化があって、 それに気づいているような気づいていないような。 春の訪れは好きだけど、何食わぬ顔でからだをジワジワと蝕んでくるような感じは何歳になっても苦手。理由もなく
なんでもすぐ忘れてしまう 悪い記憶から逃れるために無意識のうちに全部消す癖みたいなものがあると思う 無くしたいけど自分の過去が作り出した私の癖だから一応受け入れてそれにも感謝する もう無理と思った夜勤の日も あんなに辛かった無職の期間も 心の底から笑った大学生活も 一年以内の出来事なのになんだかぼんやりしてる 忘れたくないものまで忘れてしまうことを分かっているから綴るのにそれも忘れてしまう いろんな境遇の子供たちを見て 自分だって逃避の仕方ばかりが身についているんじゃな
恋人の車に乗って夜の京都タワーを見て。いまだにドキドキする。 もうすぐで京都に来て1年経つ。 転職してからはほぼ毎日京都タワーは見ているけど、まだどこかふわふわした気持ちを抱く。 なんで京都にしたのか、よく聞かれる。 言葉にするなら、すぐに実家に帰れて一人暮らしできるところくらいの動機だったけど くるりが好きだったり、大学時代の京都への憧れだったり、無意識のうちに抱いてた気持ちがあったのかも。 いまだに慣れない気持ちがある中、恋人が車で「京都に来てくれてありがと
10年に1度の寒波という日に1人でお散歩して 自分が冬生まれで良かったなと思う。 お父さんが凛という名をつけたかったという話を思い出す。凛とする、いい言葉やね。 どうせ死ぬなら、冬がいいなと思う。 綺麗なまま、とかは思わないけど やっぱり冬が美しくて、好きやね。 帰って来た感じがする。 今日、子どもに人はなぜ敬語を使うのか?っていうお話をした。 「人は出会ってすぐに信頼できる生き物じゃないから」と本に書いてあった。 言葉は難しいね。 言葉があるから伝わらないこともある
どうして素直に単純に考えられないのか 自分で複雑にしてしまうのか 気持ちをただまっすぐにいえばいいのに 自分の中で完結させようとする癖は、学生の頃から変わらない。変わりたいし変われると思っているのに、ふと忘れていたときに、やってくる。 内在的に物事を進めようとして物事の帰結を考えられないのは、人と関わっていく上でよくないことだとわかる。 自分の気持ちが、自分の頭の中だけじゃわからないから、文字に起こすようにして、目を通して咀嚼をしていたけど、それを怠っていたなと思う。