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【エッセイ】YAH YAH YAHと教員人生
私は過去に中学校の教員をしていたことがある。今はもう辞めてしまったが、新卒から8年くらい働いた。その頃の話だ。
中学校にもやはり参観日というイベントがある。学期に1.2回程度だったが、これがなかなか大変だった。基本的に参観授業はクラス担任が行うのだが、回数を重ねるごとに「ネタ」がなくなってくる。自分の教科(ちなみに私は国語だった)は、1学期に消費してしまって、そこから、やれ地域学習の発表だ、やれ防災学習だ、と色々とネタを繰り出す。だが、3学期ともなると、いよいよすることがなくなって、道徳でもやるか、という話になった。それなら、煩わしい準備はいらない。プリント1枚と黒板のみで勝負できる。(まぁこれが怖くてたまらないわけだが)
さてそうなれば、題材をどうするか、である。道徳というと、なにやらジーンとするお話を聞いて、感想を書く、という授業イメージがあるかもしれない。だが当時、アクティブラーニングとかいう流行りの教育指針があり、道徳も例に漏れず、班活動やら活発な意見交流やらが求められた。(ちなみに私は、このアクティブラーニングというやつが好きでなかった)
放課後、6人の担任会議で道徳のテーマを選ぶこととなった。横並びで差が生まれないように、全てのクラスで同じ教材を扱う前提があった。先輩担任から示されたのは、「イジメとイジり」という内容だった。(そういえばこの時期、芸人のいじり芸というのが流行って、結果的に教育現場への影響まで心配されていた)授業概要は至ってシンプルだ。最近、イジる、という言葉をよく聞くが、イジるとは具体的にどんなことか?イジメとの違いは何か?イジりに怖いところはないか?という設問で具体例をもとにイジリを考察する、というものだ。キークエスチョンは、いじりとイジメの違いは何か?というもので、その境界の曖昧さを取り扱う。イジリはイジメに内包される場合が少なからずある、したがって、イジリというのは褒められたものではない、してはならない、という落とし所を狙っている。わかりやすい、非常に。そして、安定感がある。安定感というのは、脱線のしづらさ、ということだ。この設問なら狙う落とし所から違う場所に着地するほうが難しい。時宜にもかなっており、参観日の教材としては、なかなか優秀のはずだ。だが、その時、私はなんだか言いようのない、強烈なつまらなさ、空虚さみたいなものを感じた。
私が初見で得たその感覚は、本番においてさらに峻烈に私に迫った。「イジリってイジメに繋がることもあるんだね」とか「なるほどー、相手が嫌ならイジメ、相手が一緒に楽しんでいたら、良いイジリと思うんだね」とか言っているうちに、自分ではない誰かが勝手に私の身体を使って言葉を発しているような気がしてきた。上滑りした私の言葉は、滑るだけでは足らず、宙に舞って、生徒の目の前でポトリと落ちて死んだ。授業がなんとなくしっくりはまっていない感じに気を遣ってか、私を救うように生徒たちは果敢に手を挙げ、意見を述べ、きちんと授業を着地させた。「芸人のイジリは仕事っていう側面もあるもんな、台本とかあるし」なんて、私が最後の"押し"で言わないといけないようなことまで言ってのけた。(今更ながら、彼らには感謝である)
さて、参観授業を終えた安堵の中でも、言いようのないつまらなさ、空虚さは消えなかった。大雑把に言えば、たぶん、「本質からズレている感じ」に自分が過剰に反応したのだろう。ただそれだけのことだ。自分には、そういう過敏なところがある……
その時の自分に理解できたのはその程度だった。だが、教員を辞めた後も、その出来事は、僕の明るいとは言えない教員時代を象徴する忘れられないワンシーンとなって記憶に残っていた。
あれから5年経ち、(もう教員ではなくなっていた)ひょんなことから、そのモヤモヤは、再び内省されることとなる。最近、我が家にCHAGE&ASKAブームが訪れた。そう、あのチャゲアスである。(とにかく名曲が多いが、ベスト3を挙げるなら、love song、YAH YAH YAH、はじまりはいつも雨、になるだろうか。)私はメロディより歌詞に注意が向くタイプなのだが、彼らの歌詞は本当にまっすぐで、本当の言葉という感じがする。キャッチーなメロディが代名詞とされるが、歌詞も素晴らしい。私なんかが言うまでもないが、一級品の音楽である。話がそれた。ここらでタイトル回収しよう。YAH YAH YAHなのである。チャゲアスブームの訪れたきっかけは、YouTubeの自動再生で、意図せずYAH YAH YAHが、流れたことだった。あまりの懐かしさに私は嬉しくなって、ボリュームをぐんと上げた。流れ出したイントロだけで自然とテンションも上がった。なにやら今、自分はこの歌を深く理解できるのではないか、という直感があり、歌詞の一言一言を味わおうと準備をした。さてさてどんな歌詞だったけかな。
「傷つけられたら牙を向け。自分を無くさぬために」
……!
と聞いた時、ハッと過去の教員時代の記憶が蘇った。なぜか、あの参観日のことが思い出された。「イジるのってイジメになる可能性もあるよね、危ないよね」という陳腐な、命の宿らない言葉が教室中の床に散らかっているイメージが湧いた。喉元にある自己嫌悪はまだ生温かかった。
続いて、力強く、「今からそいつをー、これからそいつをー、殴りに行こうかー」という叫び。心臓がドクンと鳴った。これだよ、これ!と興奮した。
イジリとイジメの違いだと?そんなことはどうでも良いことだ。本当に大事なのは、自分が不快な思いをし、不当な扱いを受けたら、牙を向く大切さを教えることではないのか。1人の人間として自分自身を尊重し、はっきりと相手の目を見てNOを言えることこそ遥かに大事なのではないか。それだけじゃない。「イジリは良くないよね、人が嫌がるかもしれないことはやめとこうね」という消極的な予防線も、正直言って虫唾が走る。それよりも、俺は、どんな時でも一緒に戦ってくれる親友を作れ!と言うべきだったのではないか。あるいは、いざという時のために拳は必要なんだ、と伝えるべきだったのではないか。その方が、爽快で溌剌として教室も俺の胸の空気も澄むのではなかったか。あいつらの心にもガツンと響かせられたのではないか……
いや、正確に言い直そう、自分はそう言ってしまいたかったのだ。自分が信じている言葉を届けたかった。
生きることは哀しいかい 信じる言葉はないかい…
その時、何もかも氷解し、繋がった気がした。自分は、自分が本当と思えること、本心から言える強い言葉を伝えるために、教員になった。だが当時、生徒指導なり校則指導なり道徳なり部活指導なり、「こう指導するべき」という模範と、私の信念は合致していなかったのだ。"ガッコの先生"という役割として言わなければならなかった言葉が、私の本心と、シンクロしていなかった。端的に、教員としての適性を欠いていたと言える。学校という場所が想定する正解が、もはや、正解ではなくなってきている感覚が、自分の中で強まっていた。
参観日の日に訪れた否定し難い嫌悪感は、おそらく、単にその授業内容に原因があるのではなかった。私の個人的な信念と、求められる役割としての教員像との間の深刻な乖離を代弁していたのだろうと思う。AIの時代、格差の時代、副業の時代、子どもがいなくなる時代、国が混ざり合う時代。そんな時代に、私は、学校という場所が、いまだに効率的に兵隊を作ることに固執しているように思えて仕方なかった。
私は、不適応を起こしていた。乖離の感覚は参観日以降も消えることなく、ますます肥大化し、私はまもなく教員を辞めた。
歌詞はこう続く。
わずかな力が沈まぬ限り 涙はいつも振り切れる
私が今こうやって、毎日毎日、金にならない文章を書いているのは、やはり自分の考えを伝えたい、残したい、という気持ちがあるからだ。教員として、ではなくなったが、自分の信じたことを言葉にする営みは、1人の無名な男として続けていきたい。自分は今、この形に適応しており、本当に楽しいと思っている。