他者といる技法 〜愛想笑いと陰口はなぜ必要か〜
最近、奥村隆 著の「他者といる技法」という本を読んだ。コミュニケ―ションの社会学についてなのだが、あり得ないくらい面白かったので、文章に残すことにした。
さて、愛想笑いと陰口について、あなたはどんなイメージを持つだろうか。
おそらくあまり良いイメージではないだろう。どちらも、できれば避けたいもの、と思うかもしれない。
また少し質問を変えてみよう。
愛想笑いと陰口は何のためにするのだろうか。
想像だが、きっと、前者は人間関係を円滑に進めるため、という答えになると思う。後者は、ストレス発散、あるいは特定の人間関係の親密さを深めるため、などという答えになるだろうか。
この2つの行為には、人間が社会を構築するうえで欠かせないある効能が隠されている、と著者は言う。コミュニケーションとはいったい何なのか。我々は、普段他者と同じ空間に居ながら、一体何をしているのか。考えたこともないようなこれらの問いは、「愛想笑いと陰口は何のためにするのだろうか」という問いと深いところで繋がっている。以下では、その”深いところ”に少し触れてみたいと思う。
〇我々を存在させるもの
我々は我々だけでは存在できない。出発点はここである。そう、人間は一人では存在できない。いや、正確に言い直せば、社会的に存在できない。「君は誰か?」という問いに対して、自信をもって「私は○○である」という返答をすること。この状況は、私にとって存在証明がなされている証拠である。アイデンティティが確立されている、と言い換えてもよい。だが、この存在証明は自分一人では発行できない。「確かに君は、○○だね」という他者がいて、はじめて私は存在し、アイデンティティを獲得できる。例えば、子どもがいない女性が「私は母親です」ということはできないし、生徒の居ない教師が「私は教師だ」ということもできない。つまり、我々はいかなる場合も、他者の承認なくして何者かになることはできない。承認は存在証明の鍵である。
さて、人間は徹底的に社会的な動物なので、社会に生きる上で何らかの存在証明がなければ生きていけない。そうなると、社会に存在するために、他者の承認が必須になる。なるほど、他者という存在は生きる上で無視できないわけだ。
〇他者が「主体」となるとき
他者の承認によって私は存在する。それは理解できる。しかし、それは同時に「他者の承認によって私の存在が左右されている」ということでもある。私の存在が他者に依存しているとも言える。ここで突然、私という存在の不安定さが見えてくる。私がアイデンティティを確立できるかどうかは、他者に一任されている。ここでは、他者こそがイニシアティブをもつ「主体」であり、私は存在を与えられる「客体」である。こうなれば、私より<力>をもつ存在として他者が立ち現れてくる。
〇「主体」の奪い合い
他者からの不承認は私を脅かす。彼が「主体」で私が「客体」の状況では、私は不安定なのだ。そこで、私は主導権を握りたい。他者が承認の選択しかしないように私が場を支配したい。他者との関係おいて、私こそが「主体」でありたいのだ。しかし、この考えは相手にとっても同じことだ。ここで「他者といること」の本来的な意味が確認される。つまり、他者といるということは「承認をめぐる主導権の奪い合い」なのだ。ホッブズ(だったはず)が、「リヴァイアサン」で”万人の万人に対する闘争”と言った状況に酷似した世界観である。
〇愛想笑いのもたらすもの
愛想笑いとは、「停戦協定」である。承認のさせ合い、主導権の奪い合い、には、多大なエネルギーが必要となる。また、結果的に存在証明を得られる人の数は限定的となるであろう。そこで、承認を前提とするコミュニケーションが発明される。その代表が愛想笑いである。もちろんこれは代表例であり、「大人の対応」などと呼ばれる多くの行為が同様の意味を持つ。主導権の争い、「主体」の小競り合いをなくし、私も承認、あなたも承認、みんな存在して、アイデンティティを確立しましょう、ということである。
身の回りで、ぶしつけな人、反抗的な人、直球過ぎる人、をたまに見る。彼らは、要するに「停戦協定」のない世界で生きている人ということになる。エネルギーを費やしてでも、また、自らの存在を不安定にしてまでも、「主体として他者を不承認とすること」の選択肢を捨てなかった人々なのである。
〇陰口の効能
だが、「停戦協定」を結ばない人たちにも、そうするだけの理由はあるかもしれない。それは、愛想笑いの弱点と直結している。不承認はなしにしよう、という決まりもとでなされた承認は、「主体」を争いながら勝ち取った承認とは、同じ価値ではないのである。前者には、真実性がない。誰しもが承認される場合、差が生まれず、承認されていること、の希少性が失われるのだ。
一旦そう思えば、これでは満足できなくなってくる。我々は欲深い。もっと高尚で価値のある、真実の承認によって己の存在を証明したいのである。そこで登場するのが陰口だ。表では「停戦協定」をしておきながら、裏(仲間内)では第三者の不承認を採用することで、仲間内の承認の価値を上げようとするのだ。「今あるこの承認は、できレースじゃないわよ」ということだ。こうして、真実味のバランスをとろうとする。いわば、陰口は愛想笑いの副作用である。愛想笑いなしに、陰口はない、と言える。
〇最後に感想
かなりまともな人、信頼している部下や上司でも、飲み会の席になると、陰口を言うことがある。私はこれを聞いて、「え、そういうこと言うんだなぁ」とちょっと冷めた目で見ることがあった。しかし、この本を読んでからは、「あぁ、バランスよくコミュニケーションとってんだな、なるほどな」という感想に変わった。まぁ、人を貶める言説は同意できないけれど、愛想の仮面を取って、鋭い本音を言う、くらいのことは、おそらく必要なのだと思う。
人と人とのやり取りは、ルールなしでやると「主導権の奪い合い」になるのが自然状態だ、ということを知れたのは、大きい収穫だった。一流の社会学者の本はどれも面白くて好きだ。
今日触れたのは内容のほんの一部だから、是非、買って読むことをお勧めする。