【エッセイ】詩人の原型
私は詩人である(うわぁ、言っちゃった)。なんかくすぐったいし、下手くそだし、金も一銭たりとて入らないが、確かに詩人である。その確信はある。なぜなら、私は、要請を受けて書いているからである。
その時というのは、一種の躁状態であった。学業もプライベートもズタボロで軽い鬱みたいになってから、数ヶ月かけて寛解の状態を得たのだが、鬱の終わりは反動で躁状態になることも珍しくないという。まさに、その時の私はそういう感じだった。世界が開け、気分が良く、なんでもできる気持ちになった。卒論もなんとか提出の目処が立ち、就職も決まっていた。体調もすこぶる良い。さて、一回は底についた我が人生、ここからいっちょやってやるか、という感じだったのだ。
時間も、生活する金もあったし、何よりまだ20代前半で若かったから、復活をとげた僕に選択肢は多かった。そこで、自分に問うてみた。「おい、マジで何やってもいいぞ。何やっても、こないだまでのクソみたいな状態よりはマシだ、さぁ、何やる?」
そこで書いたのが人生初作品のRUNである。なんというか、比喩的にではあるが、叫ぶようにして書いた。一息で書き切った。断っておくが、高村光太郎以外には、詩なぞ読んだこともなかったのである。しかし、詩を書こうと思うより先に、詩ができていた。後になってそうだと気がついたのだが、その時僕は、確かに、誰かに「呼ばれた」のである。
呼ぶ、という意味の英語にcall がある。これのing形のcallingには、実は、「天職」という意味がある。これは、名詞callの「要請」という意味に由来する。神か運命か知らないが、なんだか自分を超えた圧倒的な存在から要請されるのだ。「君にはこれをやってもらいたい」と。
そのお達しは、しばしば、誰かからの助けの形をとる、と看破したのは、僕の大好きな哲学者の内田樹だ。神様の「君はこれをやりなさい」は、誰かの「助けて」という仮面をかぶって僕たちに届くことが多い、という。僕はこの説に深く感銘を受け、以来この説の支持者である。
だから、たまたま聞こえてきた「助けて」を無視することは、大変な機会損失である。その「助けて」は、あなたにしか聞こえていない可能性が高い。迷わず、手を差し伸べるべきだ。
さて、私の場合、鬱(回復期では躁だが)という過剰抑圧の状態の際に、自分の内から欲望解放を求める助けの声が聞こえた。「もういい加減、思ったことを吐き出せよ。お前、書くこと好きじゃないかよ。今すぐ書け!このバカ!」てな具合である。本当にガツン、と頭を殴られたような衝撃があった。あぁ、これはどうにかして書かなくちゃしょうがない、ことが収まらない、という感じだった。
今日に至るまで、それから未来に向かっても、僕が書く理由は、「楽しいから」を除けば、あの時、内なる自分を伝って聞こえた超越からのcallのためである。気がつけば目の前のPCに詩ができていた時の、その興奮は今でも忘れられない。
誰にだってきっと、callはあるのではないか、私はそう思っている。ただ、残念ながらいつ聞こえるかはわからないけれど。