都合の良い常識に縛られる
月盛です。
言い伝えというか迷信というか、小さい頃から植え付けられたもので縛られていることがありませんか?
「嘘をついたらモーがくるからな」これは父も母も口にしました。
モーってどんなに怖いものなの?
響きだけだと牛を連想しますが子供からしたら牛だって大きくて怖いくらいですから・・・それはそれは恐れていて、結局ごまかそうとしたいたずらも白状してしまいました。
大人になっても嘘をついたら何か良くないことがおこるよという概念が知らないうちに生まれていたと思います。
「霊柩車とすれ違う時、親指を隠さないと親の死に目に会えない」っていうのもありました。
いつも霊柩車が見えると立ち止まって両手をぎゅって握りしめたものですが、何度かあっと思っても間に合わなかったりしたことがあり(親の死に目には会えないんだなぁ)と思っていました。
東京にいる時に「父さんが呼吸が浅くなったって」と知らせてきたとき、これは早く帰れば間に合うのかもとすぐに早退して向かいました。
母の時も「救急車呼んだよ」と聞いて仕事途中で向いました。
普通にしてたら親の死に目に会えないと覚悟していたので、すぐに行動して両方会うことが出来ました。
これは良い言い伝えです。
知らないうちに信じ込んでいるもの・・・たくさんあります。
常識もそうです。
先人の知恵でほほーっと思うこともあれば、都合の良いように作られた常識もあります。
人と人との繋がりを即すような常識は必要でしょうが、人それぞれの考えなどは常識というもので判断してはいけないと思っています。
なのに自分も時々(それは常識からすれば変でしょ)などと思ってしまうことがあり、自分がつまらない方向にいってるなぁ~とがっかりします。
定点観察いきましょう。
居間は
キッチンは
お互い考えが違うことが分かって納得しました。
でもどちらかが間違っているってことではありませんから、ただこの案件ではご一緒できないってことだけです。
せっかくのご縁ですから、他の案件でご一緒できることがあるかもしれません。
そう言ってあまり人との縁を切ってこなかった私です。
それが長年ご縁のあった方ともうお会いしないことにしました。
私が持病で苦しんでいる時に「それはご先祖様が何か言いたいことがあってのこと少し神様にお願いしましょう」とお札を下さいました。
無宗教の私ですが何かあったときに(神様お願い!)とかは思うわけで、そういうこともちゃんとすることも大事なのかもしれないな・・・。
そう思ってお札を飾り、年に数千円のことと寄付をしましたら私は入信したことになっていました。
そこから熱心なお誘いが続きました。
風邪をひけば祈りが足りないと言われますし、やっかいなことに巻き込まれた時はお布施が足りないとも・・・。
私はいちいち全部神様からの足りない足りないと言われるのはストレスですから止めることにしますとお話をしました。
「それこそ神からの災いが起こるから一度信じたことは最後まで信じることが人として常識です!」
私はその宗教から抜けると人では無くなるらしいのです。
そんなものです、都合の良い常識で縛られてはいけません。
それではまた明日!