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【短歌】読みの外部要因と内部要因
はじめに
同じ短歌のテクストを読んでいるはずなのに、他の人と別の解釈をしていることはありませんか?解釈に個人差が出るのは自然な話と思うかもしれませんが、その前提について考えてみましょう。読者は短歌を解釈する際に、テクスト以外からも影響を受けています。今回はその要因を「外部要因」と「内部要因」に分けて検討します。
外部要因について
外部要因とは「テクストの文字以外で読者の解釈に影響を与える、読者にとって外的な要因」と定義できます。具体的には以下のような例があります。
■媒体
・掲載媒体(紙、電子書籍、音声等)
・どんな掲載方法か(雑誌か、歌集か、歌会の詠草一覧か等)
・媒体の物としてのありかた(歌集の外装、雑誌の外装等)
・雑誌であればどんな特集か
・文字のフォント
・挿絵
■隣接するテクスト
・同じ連作の前後の歌
・同じ歌集の前後の歌
・同じ雑誌の前後の歌
■作者情報
・経歴、過去の作品、性別、職業、筆名
■情勢
・感染症が流行っているから、作品内でも読み取る
・戦争が起きているから、作品内でも読み取る
等々
外部要因の読み込みによる懸念
短歌の評をする際に、評の根拠を外部要因からもってくるとトラブルになることがあります。特に、個人情報を詮索するような評や、作者像を勝手に作って押し付ける評はハラスメントになりかねないので意識的に止めましょう。
少なくとも、自分が作家論から評をしているのか、テクスト論から評をしているのかは意識すべきです。作者の過去の歌を引いたり、活動経歴を用いることで豊かになる評もあります。テクスト(書かれた言葉)にこだわってその一首から最大限に解釈しきる喜びもあります。
歌を詠む際のポイント
短歌が置かれた文脈に対して特に意識を向けていない読者層は、外部要因を利用して一首を読むと想定するべきでしょう。良し悪しの問題ではなく、このような点を意識している読者はむしろ例外的だからです。そのため、外部要因をすべて利用して短歌を詠むという手段も考えられます。このあたりは作者の思想と戦略の問題です。具体的な例としては、本の装丁を手間をかけて行ったり、職業を強調したり、筆名を工夫するなどが挙げられます。
個人的な考えとしては、違法でなければどんな手段を使っても構わないと思います。一方で、作者の情報を前面に出して評価を得ようとするのはけっこうしんどいので大丈夫か?とも思います。短歌を読む際の前提として、現実に基づいて読まれたり、主体の属性が固定化されてしまい文体の変更が難しくなるためです。新人賞でたまに見られる光景ですが、大人の視点からの「学生らしさ」で評価を取りにいく場合などはこういった影響があるため覚悟がいると思います。評者レベルの方はご自身の権力とこの構造をご理解されていると思いますが、評者側もしんどい仕事だと思います。
余談:新人賞について
短歌の新人賞は、匿名で評価して受賞作を決めるのが一般的になっています。つまり、外部要因を最小限に抑えてテクスト論をやりましょうねという場になっています。しかし、作者の属性に対する評価がされることもあります。これは新人賞が単なる作品評価の場だけでなく、新人を見つける「採用面接」の一面も持っているからだと考えられます。出版社としては後に自分たちの雑誌で活躍する可能性のある作者を探す必要があるためこの役割も一定理解できます。
作者が気になるなら匿名をやめろというご意見もあると思いますが、実名でやりだすと弟子を贔屓する現象が発生する(かなり昔に実際にあった)ので変わることはないでしょう。新人賞発表号を読む際には選者が歌のどこからその解釈をしているのか、どんな表現をしているのかも含めて楽しみましょう。
筆者的には匿名かつフィクションを共通了解とした部門も作ってくれ!とずっと思ってはいますが。望みが薄いので個人で作るしかないんですよね……。
内部要因について
内部要因とは「テクストの文字以外で解釈に影響を与える、読者にとって内的な要因」と定義できます。具体的には以下のような点が例にあげられます。無限にありそうなので、一例と思ってください。
■内面化されたルール
・読者は原則、短歌を一人称かつ現実ベースで読み取ろうとする
■言葉への感受性
・気持ちよく感じる単語、感じない単語がある
・輪郭を感じる単語、感じない単語がある
・文語は硬質な感じがする。
■過去の経験
・知らない経験についての表現は迫ってこない
・自身の経験と作品の経験が重なるとき表現が迫って感じる
・初読と、2回目以降の読みで印象が変わる
■信用判断
・信用できない情報は嘘っぽく感じて迫ってこない
・信用できる情報は迫って感じる
等々
「内面化されたルール」の事項の「読者は原則、短歌を一人称かつ現実ベースで読み取ろうとする」という観点は、岡井隆(1997)の次の文章を参考にしました。
作者の、ある時ある場所での覚官的かつかんてき印象の一部をもって、作者の心情なり思想なりを表すものとするという約束、これが、短歌の前提であり、三十一拍をとりまく状況です。
内部要因の読み込みによる懸念
内部要因から作品を評価する場合でも良し悪しがあります。例えば、歌に深く共感するあまり、自身の感情をまとまりなく語ってしまうことや、自分だけが経験した出来事を持ち出して評価してしまうことがあります。
歌会の場であったりすると、余計な話を過度に持ち出さないように配慮すること、そしてハラスメントを避けることが求められます。ただ、これらの配慮があれば、基本的に読みは読者の自由なので特に問題はないでしょう。意外な感想が場を盛り上げたり、個々のエピソードが一番面白いこともあります。
外部要因と内部要因の相互関係
外部要因が内面化されて、内部要因になることがあるます。そもそも、内部要因は成り立ちとして、外部から取り込まれて内面化されることで発生します。
例えばある読者が、一首の作者について他者から説明され、その説明を信用すると読みに影響が出ます。
瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとゞかざりけり
こちらの正岡子規の歌はよく引用される歌ですが、もし初読の方は意味を考えてみてください。
テクストの外部情報ですが、この歌は正岡子規が病に伏している際に読んだものとされます。作者情報(外部要因)が加わることで、読者には病気に苦しむ作者の視点が与えられます。ここで得た情報は読者の中で知識として蓄えられ、読者が今後正岡子規の歌を解釈する際に利用しはじめます。この時点から読者はテクスト論ではなく、作家論の中で歌を読むことになります。
もともとは知らなかった情報でも、共同体の中で共有されているといつのまにか内面化し、当然の情報や感覚として感じるのは、短歌のみに限った話ではないです。言葉が共有される過程からしてそうなっているので、もはや仕方ないものと思います。
まとめ
歌を読み、評をする際には、外部・内部のすべての要因が脳で勝手に処理されて言葉になり出てきます。普段はあまり意識していないと思いますが、自分の評がどこから出てきているのか検証するとよいかもしれません。
個人的に評が上手いと思う方は、外部要因を取捨選択しているのは前提として、歌のイメージを広げる、深める解釈をされているように感じます。筆者は内部要因の読み込みに強めに制御をかけてしまうので、イメージを広げる楽しい評ができる人がいつも羨ましいです。
今回の参考文献
・岡井隆『現代短歌入門』(講談社)1997
・正岡子規『墨汁一滴』(清文堂文化教材社)1947
┗こちらは国立国会図書館デジタルコレクションで原文が読めます!
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