桃 三木三奈7
亜子は八百屋に戻り、桃を買う。桃の描写は見事だ。肌触り。色合い。フォルム。亜子は桃を赤ん坊のお尻のようだと思い、恥ずかしがっているほっぺたのようだと思い、口紅を塗った唇のようだと思う。その色のグラデーションから朝焼けを思い、家に帰って、桃と朝焼けを早く描いてみたいと思う。
亜子には、美を見つけ出す繊細な感性がある。いや、思春期のある時期、人は人生で一番鋭敏な感受性を持つ、と私は思っている。だから文化の変革は若者から始まる。
音楽で例えるなら、十代の半ばでその感受性を得て、それを通俗なアイドル歌手に消費するものもいる。終わってしまったクラッシックを新しく解釈し直し、演奏するものもいる。前衛を気取って、ピアノの前に11分座るものもいる。ロックをやるものもいる。パンクも、ラップも。
悲しいことに、思春期を遠く過ぎると、その感受性は磨耗していく。芸術を鑑賞する心地よさは覚えていても、発見、出会いの、新鮮な衝撃を感受しきれなくなる。新しいものを遠ざけ、自分の知っている慣れ親しんだものだけを受け入れる。
私にしても、若い頃は、高村光太郎、萩原朔太郎、中原中也、その他、どんな詩人の作品を読んでも、魂が揺れた。大学に入って、伊藤比呂美や吉野弘や鈴木志郎康を読んで感銘を受けた。でも、今、詩はたぶん読めなくなった。感性が磨耗した。
亜子は今、自分の感受性を発見し、それを表現することに夢中だ。感受性の磨耗した年寄りや、同じ思春期を迎えているのに、その感受性を芸術に向けない多くの人間といることは苦痛だ。亜子の喜びは孤独の中にある。少なくとも、今は。共に芸術を志す同志は、亜子の周辺には、いない。