「僕は足軽になりたい」(今村翔吾さんの「正直きつい」を受けて秘境の図書館職員が考えてみた)
◇今村翔吾「直木賞作家が『正直きつい!』 図書館への切なるお願い」(『文藝春秋』記事タイトル)
1月21日。『文藝春秋』さんのオンライン記事にこのような見出しが踊った。発端は同記事にもあるとおり、今村翔吾さんの1月9日のツイートだ。
↑とりあえず上記に引用はしてみたものの、文藝春秋さんでインタビュー動画が公開されたことが物語るように、図書館による複本の大量貸し出し(無料!)というのは「到底Twitterで語り尽くすことはできない」問題である。ぜひ関心のある方は『文藝春秋』当該記事を御覧いただきたい。
それにしてもツイートから10日程度で文藝春秋さんが動画特集を組んで反応したのに対して、件の図書館界隈からは何の目立ったアンサーも出ていないということに忸怩たる思いをしている。
1月9日の当該ツイートに関するリプライや引用RTを読んでいると、見知った図書館関係者の方もいる。概ね「複本をたくさん置いて無料で貸出できるなんておかしいよね、というかそれを作家さん御本人に嬉々として伝えちゃうなんて、ねぇ・・・」というような反応であり、ある意味常識的な感覚でのやりとりがされているように見受けられる。
僕も、引用RTにてこのように自身の所見を述べていた。
しかしながら動画の中で「図書館界の人の意見も訊いてみたい」と今村さんがしきりにおっしゃっている姿には、歯がゆさというか物足りなさがうかがえる。やはりこうしたパラパラとしたTwitterの小さな反応ではなくて、今村さんが提起してくれている問題に対する大きなアンサーが必要とされているのだろう。
『文藝春秋』さんの記事・動画を観て、僕は図書館界隈の有力者に向けて発信と連絡を行っている。これは図書館側としても大きなチャンスだと思うからだ。今回の問題を図書館という概念に携わる者がどう捉え、どう反応するのか。まさに、今すぐに動き出し大筋であるとしても大きな声のアンサーを出しつつ、対話の準備を進めていく必要があると考えている。
図書館が大事とされる「教育のため」って何?
貸出数ってほんとに大事なの?
どうして図書館の現場の人は複本を買ってしまうの?
読書ってオワコンなの?
これからこの記事ではこのような要素を解きほぐしていきながら、『椎葉村図書館「ぶん文Bun」のクリエイティブ司書』としてのアンサーを記したい。
(怪しい言葉「クリエイティブ司書」の説明は長くなるので下記記事などご覧ください)
日本三大秘境の小さな図書館からみた図書館のすがた、展望。小さなこの記事が、図書館界全体の態度にも影響することを願っている。
というのも今村翔吾さんの今回の提起は、かねがねいろーーーんな方面で「図書館界の問題」として取り上げられている要素に通じると考えているからだ。「図書館職員の待遇低下」「貸出数至上主義への懐疑」「なぜ日本の図書館はアメリカの図書館のような力がないのか」「なぜ出版業界他者と図書館は手を結びづらいのか」・・・。
様々な課題に通底する問題点は深く、それでいてシンプルであると思う。できるだけシンプルに明快に、山奥の夜に迎える深夜の寒さに手をかじかませながら書いていければと思う。
ちなみに「椎葉村」とは宮崎県と熊本県の境にある「秘境」の名にふさわしい土地である。「今村翔吾のまつり旅」では今村さん御本人にお越しいただいたが、各方面で「めっちゃ遠い」とおっしゃられている気がする笑。
「ハッ、そんな田舎者の言うことなんて聞いても価値ねぇよ」と思われる方こそ、この記事を読み進めていくと面白いかもしれない。
「日本の原風景」なんて呼ばれる村からは、意外といい風景が拝めるものだ。
◇図書館は「教育」を超えていかなければならない
怒られそうなタイトルである。
図書館法第1条に「この法律は、社会教育法(昭和二十四年法律第二百七号)の精神に基き」とあるように、図書館とは教育のための場・空間・施設・概念であることは揺るがし得ない。
もちろんそうである。了解。
ただし「じゃあ『教育』ってなんですか?」ということになると、なかなか議論の及んでいないケースもあり、ともすればこのことこそが「図書館の弱さ」を示す証左になっている気がする。
「図書館の教育」を考えるときに外せないキーワードが図書館法第3条の「図書館奉仕」の箇所に詰まっている。
とくに公共図書館においては「土地の事情及び一般公衆の希望に沿い」というところが最も大切である。というか乱暴に言えばこれ抜きにデザインされた図書館運営なんて何をやってもだめというところだろう。
僕たちの街(県、市、町、村)にとって「教育」が成し遂げるべきものはなんだろう。このことを考えながら、図書館というものは設立も運営もデザインされなければならない。
ここで大事なのは「僕たちの街(県、市、町、村)にとっての「教育」とはなんだろう」ではないことである。教育そのものをデザインすることを超えて「じゃあその教育を通じて何を達成するんですか?」というところまでを土地の事情や公衆の希望に沿い考える必要がある。
これは「図書館(というか公共政策)は、常に現在と未来を見据えなければならない」ということに基づいている。
この図書館が為す「教育」は、10年・20年・30年後のこの街にどんな未来をもたらすのだろうか。そんなことを本なり様々な資料なりを通じて考えなければならない(考えることができる)のは、公共図書館の使命であり利点である。
上記の使命と利点は「売上をあげなくていい」「無料で資料を提供できる」という公共図書館無料の原則に起因し、または依拠するものだ。
目の前の売上を考えなくていいから、利益を度外視して「今は使われないかもしれないが、先々重要になる(必要とする人がいる)」資料を買うことができる
目の前の売上を考えなくていいから、客層を選ばずにサービスを展開できる(公共性・情報セーフティーネット)
目の前の売上を考えなくていいから、新たな読者層の開拓に全力を注ぐことができる
逆に言えば、目先の数値など図書館には必要ないのだ。それを「貸出数」という「じゃあそれ何に繋がってるんですか?」と問われてもよく回答できないような数値に評価指標を委ねているから、評価指数を向上させようと複本をたくさん買って、たくさん貸出をしようとしたりする。
オーケー、わかった。「たくさんの人に読んでもらいたいから複本を買っている」という意見がある。了解。
しかしそこには「10年後の街に役立つことかどうか」という視点がまったく欠けている。今回今村翔吾さんが引き合いに出した「借りられるのは11年後」「直木賞22回やってんねんで」という言葉どおり「10年前の直木賞作品をようやく借りられた」読者が生まれるような「教育」ってなんでしょうね?
(というか、本当に5年とか10年とか待てる人、存在するのか…?)
・図書館がやるべき「教育」
中期的なスパンの「教育」の話をすると、端的に図書館がやるべきは「本を書店で買う嬉しさを根付かせる」ことだ。それもできれば地元の、愛着がある推し書店で。
本を目にして、手にして、どうしようもなく惹き込まれて、借りて読んでも満足しえず、常日頃そばに置いていたいという欲求から購入してしまう。この喜びを持つ人が多ければ多いほど、地元の書店・大きな書店・取次店・地方の出版社・大きな版元・新しい書き手・大御所の書き手…等々、みんなが豊かになることができる。
出版が元気で言論が活発な国。
それって、豊かな国ですよね。
・図書館が買うべき本
上記のようなことに鑑みれば「複本をたくさん買ってたくさんの読者さんに読んでもらいたい!」というのは「長い目でみれば全然ダメですよね」ということがわかる。
出版界全体に回る元気(お金)が減れば、その端っこに位置する図書館が選書する際に「いい本がない」となってしまうし、そもそも「いいコンテンツではない『本』にかける予算はない」ということで、図書館の予算も縮小されてしまう。
(これは、今現在の社会の様子そのもの)
ちなみに椎葉村図書館「ぶん文Bun」では、ご寄贈などで被ってしまわないかぎり複本を購入していない。順番待ちの方が生まれるときは(個人の程度こそあれ)「めっちゃ面白いので買っちゃったほうがいいですよ!」とお声がけしている。
もちろん「いやいや返却されるのを待つよ」とおっしゃるのであれば、それも歓迎である。そこに、その方なりの喜びの探求がある限り…。
一方で「文庫本」はけっこう買っちゃっている。取次さんを通じて本を仕入れているのだけれど「文庫版が出ているので文庫しか在庫がないです」というケースが非常に多いのだ。これはもう商品流通の問題なので仕方ないものとして、破損しやすく心配ではあるが文庫本を購入している。
また(これが重要なのだが)「小説を買いすぎない」ということも心がけている。
これは「小説が悪い・不要」とかいうことではなく、また単純に「スペースが小さい」ということだけでもなく「図書館には小説が多すぎる」ということに留意しているからである。
日本十進分類法という図書館分類(ぶん文Bunは使ってない)では「9類」とされる小説・物語本が、ともすれば蔵書構成の半分以上を占めている図書館もあるのではないだろうか。ベストセラーをたくさん買ったり、話題本を片っ端から買うとそうなる。
そのことが生み出すのは「図書館って娯楽のための場所にすぎないよね」「本好きって小説が好きな人だよね」「小説を読まないから図書館にはいかない」という、狭窄な解釈である。小説だけではなく、図書館の本(というか出版物すべて)は「ある置き方をすれば」有機的に絡み合いお互いの魅力を高め合うことができるというのに…。
※ここら辺は、椎葉村図書館「ぶん文Bun」のディスプレイの話に入り込むのでまた別件で。
椎葉村図書館の場合は日本の小説を「文学の森」、海外の小説を「文学の海」と分類し、それぞれ時代順(作家さんの生年月日順)に並べ「見るだけでなんとなくわかる文学史」に仕立てている。
このように歴史年表を築くとなると「やたらめったら買う」わけにはいかないわけで、購入方針としては「坪内逍遥の『小説神髄』以降、芥川賞・直木賞など顕著な功績を残した作家に限り購入していく」ということになった。
(断腸の思いで削った作品が多々あるが「お家で買ってね!」の思いを込めた)
こうした特殊なディスプレイ・購入方針の甲斐あって(?)小説ジャンルは蔵書全体の1割程度に収まっている。全国的にもかなり少ない割合だろう。「推し作家は推すべきとき自分で推せ」との強い思いを込めて、断腸の思いで厳選した結果である。
ちなみに今村翔吾さんの作品も、当初は厳選に厳選を重ねて4冊しか購入していなかった。『文庫シリーズ物はみずから買ってね!』という意思である。
しかしながら「せっかくまつり旅でお越しいただいたのに…」ということで、小説棚ではなく歴史棚(「人類の歩」という分類)に今村翔吾さん特集を据えるべく蔵書を強化した。
あえて小説分類ではないところに小説を置くのは「戦国時代に興味はあるけど今村翔吾さんを知らない」という新たな読者層を開拓したいがためだ。これは今村翔吾さんだけでなく、他の作家さんの作品でも展開している仕掛けである。
なお、まつり旅に後椎葉村内の方から「購入できる今村さんの作品は全部買いました」というお声をいただいた。お客さまは、若干興奮気味であった。
まさにこういう瞬間こそが、書き手さんと司書の思いが重なった瞬間であるといえるだろう。このためにやってるんだ、という感情が仕事に伴う満足感にあふれる時間である。
***
話が長くなってしまったが、要するに僕は「図書館が進んで買うべきは小説ではない」と思っている。小説は、作品の歴史や文学史の概観を「なるほど~」と眺められる程度に揃えておけばいいと考えている。そこから自らの推しをみつけ、ファンになる準備をするのだ。
推し作家に投資するという喜びを生むことこそが、図書館の使命である。
小説を進んでどんな本をたくさん買うべきかというと「自分じゃ買えない本」であると思っている。
もちろん「買えない」という基準は環境によりそれぞれである。一人一人様々であろう。お小遣いの多寡、収入の多寡は千差万別である。そして「公共」とは、一人も取り残さないセーフティネットでもあり、公約数を読み解くことでもある。
以前「自分じゃ買えない本」という特集を椎葉村図書館でも展開してみたが、こういう「高え!自分じゃ買わない!!でも、知らなかった…」と思える本こそ、図書館で買うべきではなかろうかと思う次第である。
・椎葉村図書館が見据える「教育の先」
あの…毎日毎日考えていることをつらつら書いているので、もう5,000字に到達しそうです。noteの長さじゃねえですね・・・。
そしてここで「じゃあ椎葉村図書館はどんなデザインのもと運営されているんですか?」という質問に、一人の職員として答えておこうと思う。
椎葉村の図書館づくりで一番最初に出てきたキーコンセプトが
…だった。
2020年7月にオープンした「新しい」施設での記憶が、いつかの「懐かしい」に変化し「かえりたいなぁ」と思ってもらえるように。そんな「新しいって、懐かしい」という、過去と未来が同居するような場所にしたい。
そんなキーコンセプトにもとづいて描いたコピーメッセージは、椎葉村で愛され養われている「ニホンミツバチ」をモチーフにしたものである。
・・・長くなりそうなので端的に申し上げると、これって「ニホンミツバチみたいに可愛くて大切にされている椎葉の子どもたちが将来UIターンしてくれるかどうかを左右するほどの図書館を運営しよう」という覚悟のメッセージなわけである。だからこそ、ぶん文Bunのキャラクターはコハチローというニホンミツバチなのである。
ニホンミツバチは強い帰巣本能をもつが、気に入らない巣箱からは逃去してしまうという習性がある。子どもたちが気に入り、大人になってなお「懐かしい」と思い帰ってくる。そんな巣箱としての図書館づくりへの覚悟を心の底に抱いた図書館なのである。
そしてこれがいちばん大事なのだけれど、この「UIターンを生む」という大目標は、椎葉村が掲げる第6次長期総合計画とも歩みを同じくしている。
長期総合計画の基本理念はまさに、
…である。人口減少の危機感に基づく長期計画は、UIターン創出を念頭において打ち立てられた。数十回にわたる住民ワークショップを経て築かれたこの長期総合計画は、図書館法の言葉を借りるならばまさに「土地の事情及び一般公衆の希望」である。その結果生まれた「かえりたい」という言葉と図書館が掲げる理念の同一性は、まさに「教育の先」に見据えられたビジョンそのものである。
そしてこれは他ならぬ「貸出数至上主義」からの脱却の道しるべでもある。
図書館の目標が長期総合計画と歩みを一つにするのであれば、その成果指標はまさに「村の存続そのもの」と捉えることができる。こうした評価指標の置き方は、図書館を「単なる教育の場」から「自治体の将来に欠かせない場」に変貌させる。こうした政策デザインの発想・思考・過程があるかどうかは、地域内外からの図書館への評価を大きく左右するであろう。
「UIターンを生む図書館」と検索していただくことで、さらなる詳細をご覧いただける資料がぽろぽろと出てくる。こういう政策レベルで図書館のあり方を議論すれば「複本をたくさん買って貸出数を増やさなくちゃ!」みたいな話は不必要で「やっちゃいけないよね」ということがお分かりいただけるだろう。
◇物を売ったことがない人へ
この記事、長い。
わかっております。了解。
ここまで読んでくださった方ならば大丈夫だろうと、ここからはもうちょっと乱暴なことも書きたいと思います。
それは「読めなくて困っている人がいるから複本をたくさん買わなくちゃ」というのを「公共」と説明する論理は、なかなか苦しいですよということ。
『文藝春秋』さんのインタビューでも今村翔吾さんが他のサービスで喩えていましたが「自分の売っているもの・作っているものを隣で無料貸出している奴」がいたら、僕だったらぶん殴ります笑。転売ヤーどころの騒ぎじゃないです。
それを「公共」の名のもとに図書館はやっているということ。まずここの自覚が必要です。
けっこう図書館員さんでこの点に「?」がつくことが多いんじゃないかと思っているのですが、それは「キャリアの中で物を売ったことがない/営業したことがない」方が図書館の現場に立っていることが多いのではないだろうかと思っています。
売上を立てるためにどれほどの営業努力があって、そこから営業利益がどのように生まれて。。。というビジネスマンなら一般に身に着けておくべき経済・経営感覚の欠如が「公共」の名のもとに行われる利益構造の破壊を良しとしてしまうのではないだろうかと思うのです。
こうした現状に対して・・・たとえば書店さんとの人事交流があって、本を売ることがどれだけ大変かということを経験する・・・こうした出向関係などを通じたキャリア変遷があったりしたら、図書館人側の出版業界への理解は変わってくるでしょうし、あるいはそれが図書館人への評価の再構築に繋がるのかもしれません。
いくらなんでも、無料で貸せる図書館で同じ本を何冊も貸しちゃうというのは常識的経済感覚に欠けています。そんなことが、多様なキャリアを経たり実際の販売に携わったりすることで、理論的にも肌感覚でも常識でも腹落ち理解人が増えるのではないでしょうか。
***
ちなみに小宮山自身は営業をしたことがあるのかどうかと訊かれると、あります。ガス会社で家庭用のガス機器類(コンロとか給湯器とか、あとは消火器とか住宅リフォームとか)を販売していました。
成績は…「売上よりも、お客さんにもらってくる野菜のほうが多い」とか言われていたくらいです。月間目標に対して進捗0.2%という月もありました。
だからこそ、物を売ることの難しさを身にしみて感じています。物を売り事業を成り立たせることの難儀と尊さを実感しています。もうトラウマ級に、朝6時から開催される営業ミーティングで罵倒s…。
そして「物を売る」尊さだけでなく「書く」ことの尊さも最近痛感しています。
宮崎本大賞という宮崎県内の書店さん・図書館で共同して「本好きを増やそう」(本を買う人を増やそう)というキャンペーンの実行委員を務めておりまして、プロモーション担当として連作ショートストーリー「好きなページはありますか。」を書いています。
小説を書くって、ゲロ大変ですね。締切を守りながら、時代・舞台考証をしながら、キャラ設定やシナリオに鑑みつつ、読んでもらうに値する文章を紡ぐ。こんなことが「無料」であっていいはずはありません。
(もちろん小説に限らず、すべての価値ある本は無料であっていいはずがありません)
だからこそ、はき違えた「公共」の名のもとに出版界の元気を奪うことがあってはならないと思うのです。
思うだけではなく、誓うのです。
・図書館の無料貸出が問題になるのは日本だけなの?
2023年1月14日(note掲載時、上記ウェブページの日付が「2022」になっていますが誤りです)に『闘う図書館』という米国図書館の歩み・取り組みを取りまとめた良書の著者である豊田恭子さんとオンラインで協業する機会があった。その際「日本のような無料貸本屋批判はアメリカでは起きないのですか?」と質問させていただいた。
豊田さんの答えは明瞭で「作家たちからの図書館批判はない」とのものだった。
なんでも米国の出版業界全体の売上に対する「図書館による購入費」は、5割程度を占めるそうだ。日本の図書館による図書購入費と比べたらもう雲泥の差で「そりゃ文句も出ませんよね」というところだ。
米国では図書館が「闘う」ことで大きな予算を勝ち取ってきた歴史があり、それが出版界におけるプレゼンスの高さに繋がっているわけである。
この点は、日本の図書館の政策方針とその姿勢において、あるいは出版界の「元気の出し方」において、大いに参考になるだろう。図書館は図書館で予算を勝ち取りに行かなくてはならないし、出版界は出版界で「図書館の予算を大きく増せば売上も大きくなる」という可能性を検討してみてもいいのではないだろうか。
書いていて思い出したのだけれど、椎葉村図書館も登壇した「本の学校2022 ブレストミーティング」における全体会のなかで「図書館予算を増やすよう出版界からはたらきかけることが最終的には出版界のためになるのではないか」という講評も聞かれたところである。
こうした声を大きく育てていくためにも、図書館は目先の貸出数なんかにこだわっている場合ではない。
地域のためのデザインのもと、地域の数十年後を見据えた教育・展望を実践していく。そうすることで見据えられる大目標を堅実にアピールすることで、図書館が単なる「教育の場」ではなく「地域振興の拠点」であることが業界内外に伝わっていくはずだ。
◇本はオワコンなのか
最後に、ようやく、一番言いたいことが書けます。
最近ずっと考えていたことです。
「本はオワコンなのか」
正直図書館の問題は個人・自治体・店舗・国と様々な位で考慮しなければならない要素が多すぎて、これから多々議論を重ねなければ断言できないことだらけだと思うのです。
ただ、これは断言できる。
今こそ本が必要だと。
重くて面倒で手間暇がかかり情報速度としては遅い本こそが、世界に必要だと。
・「本のない世界」は、1950年代に予言済みだった
「ハイハイまた『本は必要だ』ねwww」
とお思いの方こそ、この先を読むと面白いかもしれません。
「本なんて読まなくても、動画で情報は得られるからね。だいたい紙の本なんて重いしかさばるし臭くなるし、本なんて使うにしても音声読み上げサービスで聴くくらいだねww」
・・・けっこうこんな意見(というか人そのもの)が多く聞かれる昨今ですが、僕はそのたびにレイ・ブラッドベリの『華氏451度』を思い返します。「紙が燃え始める温度」がタイトルになっている、焚書による思想浄化が行きわたったディストピアを描いたSF名作です。
「ぼくらは二〇二二年以降、二度、核戦争を起こして」しまった後の世界をブラッドベリが描いたのは1953年のことでした。僕は2022年に同作を読み返したのですが(核戦争が本当に起こりそうでしたからね)、彼が書ききった「本のない世界」は、まさに現代の日本(世界?)だと思うのです。
「巻貝」を耳にはめ外部の音を遮断する人々(エアーポッドやん!)
どんどん短くなり、情報の集約が進んだ映像情報(YouTubeショート・TikTokやん!)
無思考のハイスピード運転、事故へのスリルに身をゆだねる快楽主義(煽り運転問題?これは。。。昔からあるものがドラレコ技術の発達で可視化されたものかもしれませんね)
映像配信部屋で無気力に配信を受信している視聴者(休日の僕やん!)
以上が1953年に予言され『華氏451度』の中で描かれた「本のない世界」です。まさに現代じゃないですか?
今回は詳しい引用を省いているので、気になる方はぜひお気に入りの書店さんで購入してみてください。僕は、上記リンクのハヤカワ文庫版で読み返しました。
・超絶便利なショート動画、めんどくさコンテンツな本
『華氏451度』でも情報はどんどん短尺動画化されていて、長尺の情報動画すら敬遠されているというような描写がありました。
昨今言われている「映画館で2時間集中できない」(途中でスマートフォンを触ってしまうなど)という問題も、似たところがありますよね。本当に『華氏451度』の世界は2022年的だと思うところです。
集中力の欠如、思考の欠落。これって何に起因しているかというと「便利でリッチな情報を得られる優れた短尺動画」のせいだと思うのです。
ご存知のとおり、ショート動画をつくるのってめちゃくちゃ大変です。だらだらと喋った動画をノーカットで自動字幕貼り付けで公開するのと違って、編集・情報の詰め込み・引き込み力・・・と様々な力量が試されるのがYouTubeショートやTikTokの世界だと思います。素晴らしいコンテンツです。
そうして頑張って作られたコンテンツだから「見てる側は何も考えなくていい」んですよね。ページをめくる必要も、タップすらもする必要がない(どんどん次のショートが流れてきます)。何を考えることもなく、ただただ楽しくてちょっと役に立ちそうな知識が流れていく。
・・・そう、流れていくんです。
ぜんぜん、自分で情報を咀嚼する努力が必要ないんですよね。だから1時間とか2時間とか平気で溶かしてしまうし、溶かしきった時間に対しての徒労感が凄い。ショート動画は楽しくて便利でいくらでも観ていられるけれど、あれは消費者向けのコンテンツであって創造者が得るべきものではないと考えます。
それに対して本というのは、自分の手で持ってめくって、自ら首やら眼やらを動かし「読む」という自発・能動的な動きを通じて情報を追い、噛み砕かなくてはなりません。めんどくさい、古臭い、手間のかかるコンテンツです。本はショート動画などの短尺情報リッチコンテンツによって「時間と片手の奪い合い」というマーケットで押されてしまっている・・・このことは疑いようがないのだと思います。
要するに、本というのは書く方も編む方も読む方も手間がかかる、まさに三方暇なしのめんどくさコンテンツです。
そして僕の見解は、この手間こそが頭を育て思考する力になっているというものです。物語を追う(映画もそうですよね)、論の構造を追う、頭の中で(ときにはペンも使って)整理する。この手間こそが「考える力」そのものであり、社会・文化・国そのものの力になるのです。
よく本の支持者の論として「紙の香りが」とか「めくるという行為そのものが快感で」とか「電子の画面ではどうも目が」とか色んなアレコレが述べ立てられますが、どれもこれも決定的な説得力はありません。だからこそ本はオワコンだと言われています。
しかしながら「本はめんどくさい」というこの一点は、揺るがないでしょう。だからこそ、力がつくのです。
だからこそ本は、この思考停止しかけた世界を変えるために必要なのです。
重くて面倒で手間暇がかかり情報速度としては遅い本こそが、まっとうな世界を生きるために必要なのです。
・アブトロニックでアスリートは育つのか
「見てると何にも考えなくていい」ショート動画のことを考えると、いつも「ただ身体に巻くだけで筋トレできる」というあの機械のことを思い出します。
まだ売っとるんじゃな・・・と思いましたが「ただ寝転んでスマートフォン眺めてるだけで勉強した気になる」というのと「ソファで筋トレできちゃうよ~」というのはよく似ていると思いませんか?
そして、どうでしょう。寝転んで機械を巻くだけで筋トレが成功し、素晴らしい肉体を手に入れられるのでしょうか。
理論上は、あるいは一時的には可能かもしれません。ただそんなトレーニング(?)方法では、本質的に肉体を育てぬく「アスリート」にはなれないでしょう。
※「アブトロニックでアスリートとして大成する身体をつくりました!」みたいな事例ってあるんでしょうか?あれば商品広告とかでめちゃくちゃ使われると思うのですが。。。もし万が一存在するならば教えてください。
ショート動画を受動的に見ただけで「学んだ」「思考が育った」というのも、似たような状態ではないでしょうか。一時的に何か知ったことが増えても、それに伴う「考える力」「何かを生み出す力」「創造力」は育ちません。ただ情報を消費し、情報の波に飲み込まれ消費されるだけです。
・大事なのはめんどくさいことに取り組む自発力
ここまで書いておいて今更なのですが、私は「ショート動画が悪い」という意見をもっているわけではありません。「ショート動画を受動的に見て何かを得たような気になるのは、実際には何の力にもなってないよね」と言っているわけです。
先述の通りショート動画を制作するのにはとてつもない手間暇と情報の集約力が込められていますから、ショート動画を集中して整理し自分の言葉でまとめ直すなどすれば、それは本当の意味での「思考力」に繋がるかもしれません。
もっといえば、紙か電子かなどはほとんど問題ではないと思います。動画や映画だっていいでしょう。活字でなくてはならない?そんなことは多分重要ではないのでしょう。
問題は「自発力」。自ら情報を得て整理をするという、脳にかかる負荷です。この負荷が大きければ大きいほど思考はよく育つし、負荷を大きくするためには小さな負荷からトレーニングを積まなければならない。
こうして考えると、筋トレって素敵ですね。
(※12,000字かけて出した結論です※)
先にも述べた通り、本はめんどくさいです。紙の本の場合、物理的にも臭かったり重かったりします。
だからこそ効く。
めんどくさいからこそ、脳に負荷がかかり自発的な思考が育つのです。
こういう視点をもてば、本はオワコンではなく今こそ世界を救うために必要だということが自明になるでしょう。
めんどくさい脳トレで、消費者から創造者に変わりましょう。
◇とはいえ本を読むのは大変だ
何度も何度も「本を読むのは大変だ」と申しておりますとおり、本はそれを読むのがめんどくさくて負荷がかかるコンテンツです。
だったら読まなければいい。
そんな考えをもつ人々もいます。
クリエイティブ司書が主催する「オンライン積読読書会」には「読まなくてもとりあえず買う」という人々が集まってきます。平気で、読んでもない本の感想を語ったりします。
一見するとテキトーで全然説得力がない会なのですが、本の楽しみ方って「読む」だけではないことを教えてくれると思うのです。
表紙がかわいかった
プレゼントするために買った
家の棚にちょうどすっぽりきそうだった
何で買ったか覚えていないけれど、とにかく手放せない
積むだけで幸せ
などなど「積読」にハマる経緯や効果は様々です。ぜひご興味ある方は、一度クリエイティブ司書の積読読書会に参加してみてください。毎月開催して、もう2年が経とうとしている会です。
「読めない、でもとりあえず買って積む」
このマインドは、とにかく無料で事を済ませようとする「消費者主義」と反対の、どこかおおらかで古ぼけた、それでいて愛に満ちた姿勢であります。
もしかすると、積読こそが出版界を救ったりするかもしれない…という主張は、また別の機会に譲ります(笑)
◇僕は足軽になりたい
長くなりました。
本当に長くなりました、すみません。
ですが、今回の今村翔吾さんの提起と『文藝春秋』さんの記事は、まさに僕自身がクリエイティブ司書として図書館界隈に思うところと一致する部分が大きかったのです。まるで「はやりに載せて自分の主張を述べた」みたいなかたちになっていますが、常々こういうことを考えて図書館をやっているんだとお捉えいただけますと幸いです。
僕はこの記事を書くことで、最初に突っ込んでいく足軽になれたらなと思っています。
「は?」と思う方は、ぜひ『文藝春秋』記事を購読して今村翔吾さんへのインタビューをご覧ください。新規登録の場合450円/月だったかしら?
いま「有料かよ~」と思った方。わからなくはないですが、まさにそんな思考が「無料貸本屋」を生む事態に繋がっているのだと思うのです。
450円。たしかにこれが大金だという方はいらっしゃると思いますが、だいたいチェーン店の牛丼代くらいですよね。普通の牛丼でも中盛り以上にしたら500円を超すのではないでしょうか。
僕はこれこそが、コンテンツせめぎあう「手と時間の奪い合い」(スマートフォン関連のコンテンツvs本というマーケット構図)において出版界・図書館界が成し遂げていくビジョンだと思います。
日本の経済はますます縮小・衰退していきます。人口が減るのだから仕方ないですよね。都市の規模が小さくなったり、たとえば内田樹さんの唱えるような「撤退」をどう実現していくかが日本の自治体の肝になっていくでしょう。
日本は、貧しくなっていきます。
そんな中で、かつて出版が戦後期などの日本が苦しいときに社会を支えたように、そうして日本の復興が遂げられてきたように・・・「貧しいなかでも本というコンテンツが選ばれる」豊かな世界が育まれればと願っています。
願い、活動しています。
日本の縮小を最も身近に感じる秘境の村だからこそ、危機感をもって「今だからこそ本」ということを唱え続けたいと思うのです。
そのためにも出版界は元気であらねばならない。そのためにも図書館は目指す未来を明確にしつつ改革を実践しなければならない。
今回の記事ではそんなビジョンについて書いてみました。
「僕は足軽になりたい」
そんな思いを込めたこの記事ですが、文藝春秋さんのインタビュー動画をご覧いただかなくては本当に「何?足軽になるん?」って感じだと思いますので、何卒ぜひとも元記事をご覧いただければ幸いです。
一緒に、めんどくさい世界をはじめましょう。
椎葉村図書館「ぶん文Bun」
クリエイティブ司書
小宮山剛