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Sagesse Sauvage〜サジェス・ソヴァージュ〜 〜内気で開放的なクオリアと自由意志のフラクタル〜 3章 13年前の佐藤ツヨシの思考

3 アイデンティティの話 ―超フラクタル 発展論―

クオリアの違いが世界認識の違いである。そして個性である。クオリアによって認識されたものをどう感じ、どう受け止め、どう進んでいくかは、個性なのである。クオリアの違いによって、僕らは様々な判断をくだしていく。例えば、進路の話であれば、ある者は就職へ、ある者は教職へ 、と様々である、というように。

アイデンティティというか、自我、というか、その類の話は、もう飽きるほどの数が積み重ねられてしまい、もはや佐藤ツヨシの出る幕はないのだろうが、敢えてここへ挑んでみたい。
一体、≪アイデンティティ≫とは何か。

アイデンティティ(identity)は「自己同一性」というように説明される。自分とはこういうものだ、という認識がアイデンティティである。個性とはpersonalityやindividualityと訳される。日本語でパーソナリティと訳して表現もしている。アイデンティティとパーソナリティ…どう違うんだ。同じじゃないか、意味は同じではないか。個性の確立もアイデンティティの確立も、「私という存在の独立性」と考えてみて良いのではないか。では、その自分という何か、というものを考える時に思うのは、あの忌まわしき言葉「自分探し」 である。僕は、ここで、使い古された≪旧パラダイム 的アイデンティティ≫に別れを告げて、≪新しいパラダイム上のアイデンティティの形≫を提唱したい。それが「超フラクタル発展論」的アイデンティティなのだ 。その新しいパラダイム上のアイデンティティ論の全貌を提示する前に旧パラダイム的アイデンティティをさらっと考えていきたい 。

3−1 旧パラダイム的アイデンティティ - identity is in a old paradigm.-

旧パラダイム的アイデンティティ、聞き慣れないが、一般的に世間で言われているところのアイデンティティのことだと考えてもらえればよい。それはIDカードに示されるように、自分とは何か、を1つに規定していくものである。例えば、佐藤剛であれば「1985年1月3日生まれ のO型…云々」というようにそれによって佐藤剛の素性を規定していく。このようなアイデンティティ観を僕は≪旧パラダイム的アイデンティティ≫という言葉で表している。これは「自分探し」というまやかしのような言葉 と結びつきやすい。自分と言うものの姿がなにかすばらしい1つの姿に帰結することを望むこのアイデンティティ観は、なにか居心地の良いようなものに感じる。何か失敗しても<本当の姿>ではない、と言い訳はいくらでも可能だ。何か1つの自分のあるべき姿を探る心の旅はきっと終わることはないのだろう。あるべき理想というのはいつまでたっても見つからない。この心の旅は終わらないからこそ、大変で楽しいのかもしれないが、いつまでも終わらないからこそどんな言い訳もし放題なのだ。このような、何か正しい自分の姿がある、という旧パラダイム的アイデンティティから脱却していく時期が今、そこまで来ている。

3−2 フラクタル・アイデンティティ – identity is where? all fields is true.-

フラクタル・アイデンティティという言葉を旧パラ的アイデンティティに対置させ、乗り越えていきたい。これについては僕のSSG論文「フラクタりずむ ver2・1」の中の「2−1 Are YOU HaPpy?―フラクタルな僕ら―」 にも書いたのだが、ここではこのフラクタル・アイデンティティについて、もう少し詳述することを試みていく。

フラクタル・アイデンティティというものは、「人間が持つ内部フィールドは大小のフィールドの連続体である」ということからはじまる。さらに「自分の持つフィールドは無限に増殖していく」ということ、「大小のフィールドで表出する自分はどれも本当の自分である」ということの以上3点がフラクタル・アイデンティティの重要なポイントとなる。

まず、「人間が持つ内部フィールドは大小のフィールドの連続体である」ということから述べていく。個人の持つ内部フィールドとは、例えば、大学生であり、塾講師であり、兄であり…というような個人の持つ肩書き的なものである。ただし、このうち、例えば、大学生というフィールドであれば、その中に、ゼミ員、3年生、教育学科生 …という小フィールドが存在し、また、ゼミ員というフィールドの中でいれば、対Aさん、対Bさん、対Cさん、というさらに小さいフィールドが存在している。これが僕の言う「大小の内部フィールドの連続体」と言うものである。

次に、「自分の持つフィールドは無限に増殖していく」ということについて考える。先に見ていったように、人間にはそれぞれが持つ大小のフィールドが存在する。大学生というフィールドの中には小フィールドであるねもと研やSSGや幼児ゼミという小フィールドが存在する。そのねもと研の中には、対個人という小フィールドが存在する以外にも、複合的なフィールドが存在している。ねもと研内部で言えば、AさんとBさんと僕、AさんとCさんと僕、BさんとCさんと僕といったような複合的な大小の連続体ができる。対個人より1つ大きなフィールドでも考えてみると、地元の友達といる僕と、バイト先の友達といる僕、の他に、バイト先の友達と地元の友達と僕、という複合的なフィールドもある。このようにその組み合わせは無限であり、生きている限りは無限 に増殖していくのが、フラクタル・アイデンティティのフィールドである。

最後に、「大小のフィールドで表出する自分はどれも本当の自分である」ということについて述べる。コレに関しては、大体の人が同意、というか、実感を得られるだろう。バイト先での言葉使いや行動と、親しい友人との間の言葉使いや行動は全く別物ではないだろうか。しかし、果たしてこれら別フィールドに立つ自分のうち、どれかが本物でどれかが偽者であるという事があるだろうか。否 、これらの自分は本物である。これが「大小のフィールドで表出する自分はどれも本当の自分である」ということである。

3−3 フラクタル・アイデンティティの中のコア・アイデンティティ -what is core? core is at the center of your fractale.-

さて、そのようなフラクタル・アイデンティティであるが、ここでSSG論文から図を流用して示す。

図1 フラクタル・アイデンティティの図 
ベン図を用いた図をここでは示していた。図は割愛させてもらいます。

ここで、問題にしていきたいのは、フラクタル・アイデンティティについて「一定の自分」を否定するか否か、ということである。

結論からすれば、僕は一定の自分の全否定はしない。「全否定は」とした理由は、「本当の自分」というものの否定はするが「一定した自分」を否定しない、ということである。このことは非常に重要な区別である。「本当の自分」とは、存在しえないが、追い求めてしまう理想の姿、言い訳のために妄想される都合の良い自分像、のことである 。対して、「一定の自分」とは、各フィールドにおいて、異なる言動を発する自分の中の芯、であり、自分の持つ全てのフィールドをつなぐ信念のようなものである。これがないと、全てのフィールドにおける共通性がなくなり、その全てが自分自身から離れ、自分というものが、有って無いようなものになってしまう。「一定の自分」というものがあってはじめて、各フィールドが表出する自分が同じ固体である、と言えるのである。先に示した図1でいうと、ベン図の中心の全ての円が重なる部分が「一定の自分」である。フラクタル・アイデンティティを持つ自分を1人の個人たらしめるもの、それが「一定の自分」であり、それを僕は「コア・アイデンティティ」と呼ぶのである。

僕は、1つの確かな自分は信じないが、表出しているフィールドが他のフィールドとの連続体の1つであるということを確かならしめる一定の自分の存在は信じたい。この一定の自分の存在が大切なのである。

続く

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