「桜小路きな子」論―『ラブライブ!スーパースター!!』3期第10話における「ひとりじゃない」ことの射程
「桜小路きな子」というタイトル
2024年12月8日、NHK Eテレにて『ラブライブ!スーパースター!!』3期 第10話「桜小路きな子」が放映された。
タイトルがキャラクターの名前になったのは、TVアニメのラブライブ!シリーズ史上初のことで話題を呼んだ。
なぜ、タイトルが「桜小路きな子」なのだろうか。
あるゆる創作物においてタイトルとは、その内容の解釈を方向づけうるものだ。
だとするならば、「桜小路きな子」とは何か――に定位して、第10話を振り返ってみた時、いったい、どのような解釈の地平が開かれるだろうか。
「桜小路きな子」とは何か
「桜小路きな子」とは、何だろうか。
「桜小路きな子」は名前だ。名前とは何だろうか。名前とは、それが人間のものであるならば、その人間を他と分ける機能を持ち、頭から爪先まで、そして、生まれてから「今ここ」に至るまでのすべてを表すものとも言えるだろう。
少なくとも名前というものは、それがなんであれ、ある種の”排他性”(あるものをそれとそれ以外に分ける性質)によって成り立っているものだといえる。
そして、それは、それが語られる環境によって、その色合いを異にする。
「桜小路きな子」は、紛れもなく『ラブライブ!スーパースター!!』に登場する人物のうちの一人であり、結ヶ丘女子高等学校スクールアイドル、Liella!のひとりだ。だから、もし「桜小路きな子」を語るのであれば、ラブライブ!という大会やスクールアイドルという作中の概念を通して語られなければならないだろう。
”遊びではないスポーツ”としてのラブライブ!
2024年に14周年を迎えたラブライブ!シリーズは、一つ例外はあるものの、ラブライブ!という日本一のスクールアイドルを決する大会を目指して努力する女子高生たちの物語を描いてきた。
その物語は、「スポ根」と評されることが多い。
ラブライブ!は歌と踊りやアイドルとしての振る舞いを競う大会ではあるが、優勝を目指す過程での艱難辛苦を乗り越え、努力し、一度きりの舞台に立つその様は、まさに、己のプライドをかけた”遊びではないスポーツ”だ。
”遊びではないスポーツ”においてプレイヤーの名前とは何か
”遊びではないスポーツ”(それがアマチュアであれ、プロであれ)という文脈において、そのプレイヤーの名前というのは、常にある視線に曝されている。プレイヤーの名前はトーナメント表やランキング、記録表などにおいて表示され、それを見る者によってしばしば比較され、優劣をつけられることを余儀なくされる。
結果がすべての厳しい世界であるが、良い成績を収めれば、その功績は永遠に残り、称えられる。
公平なルールのもと行われた試合の結果、プレイヤーの名前は、その”責任”において、各々、語られ、評価されているといえよう。
そのような点から、”遊びではないスポーツ”におけるプレイヤーの名前とは、〈責任の主体〉の名前だといえる。
例えば、フットボールの試合で、プレイヤーがゴールを決めた時に賞賛され、その名前を称えるチャントが歌われるのは、まさに――他でもなく――ゴールが、そのプレイヤーの”責任”において引き起こされたことによる。逆に、つまらないミスをして失点を招いたプレイヤーが名指しで批判され、敗北の原因として語られてしまうことも、そのプレイヤーの”責任”において起こった悲劇であるからだ。
それがチームスポーツであるならば、ひとりのプレイヤーのミスによって、他の〈責任の主体〉たち――つまり、他のチームメイトたちを含めた全体の敗北を(巻き込むようなかたちで)招いてしまうことは起こりうるし、だからこそ、”責任”の矢印はその”ひとりのプレイヤー”に集中しやすい。
しかしながら、ミスをしたプレイヤーがいたとしても、その人を励ます温かいサポーターやチームメイトは、必ずいる。
そもそもそれまで良いプレーを続け、日々の努力を怠らない、人間として尊敬できるプレイヤーだからこそ試合に出られているのであって、たった一度のミスでそれらすべてがなかったことにはならないからだ。もし、そのプレイヤーが周囲の応援を胸に再起し、成長し、やがて大きな勝利を手にするのならば、それ以上の熱い物語はないだろう。
この時、そのサポーターやチームメイトは、プレイヤーの姿勢や態度――つまり、〈生き様〉を評価している。
”遊びではないスポーツ”において、プレイヤーの名前とは、〈生き様〉の名前でもある。
もしミスをしたプレイヤーが日々の練習を怠り、遊び惚けているような意識の低い人間だったなら、誰であっても擁護はできないだろう。
”遊びではないスポーツ”の世界では、〈責任の主体〉としてのプレイヤーと同じ程度に、〈生き様〉としてのプレイヤーが見られ、その名前が語られていく。
ふたりの「桜小路きな子」
ラブライブ!とは、”遊びではないスポーツ”のようなものだ。
そして、”遊びではないスポーツ”においてプレイヤーの名前とは、〈責任の主体〉としてあるものであり、また、〈生き様〉としてあるものであった。
そして今、立ち返って”「桜小路きな子」とは何か”を考えるのであれば、それは、同じく、〈責任の主体〉であり、〈生き様〉であるといえるのではないだろうか。
Liella!の一員である「桜小路きな子」をラブライブ!という大会やスクールアイドルという作中の概念を通して語るのであれば、それは、ふたりいることになる。
〈責任の主体〉としての「桜小路きな子」。
〈生き様〉としての「桜小路きな子」。
ふたりは混然一体となって、物語に存在している。
第10話の冒頭では、まさに〈責任の主体〉としての「桜小路きな子」が前景化された形で表れている。ラブライブ!東京大会で歌う楽曲の歌詞担当に推されたきな子は驚き、困惑し、はじめはその自信のなさから断ろうとするが、他のLiella!メンバーらの期待や後押しを受け、その場の雰囲気に流されるかのように請け負ってしまうところから、物語は始まる。
次の章では、その”〈責任の主体〉としての「桜小路きな子」”に着目して、第10話の物語を部分的に振り返っていく。
〈責任の主体〉としての「桜小路きな子」
哲学者の戸谷洋志は、近年、すっかり日本社会に定着してしまった素朴な自己責任論によって、人間が困難な状況に陥った際、誰かに助けを求めにくい状況(社会)ができあがってしまったことに対して、警鐘を鳴らしている。
現代日本に定着した素朴な自己責任論とはどのようなものか。
戸谷は以下のようにとらえている。
戸谷は、このような自己責任論が依拠している責任概念を「強い責任」と名づけ、実社会が――刑事裁判のようなケースにおいて――その「強い責任」概念によって成り立っていることを全面的に認めた上で、それのみによってすべてが語られてしまうことに異議を申し立てている。
戸谷によれば、「強い責任」がそれをそれたらしめるのは、”排他性”である。
「強い責任」は人間を「責任がある者」と「責任がない者」に区別し、「責任がある者」が他者を頼ることを許さない。人間同士の関係性を絶ち、「責任がある者」は、その責任において、孤独を余儀なくされる――べきであるという排他的な責任観である。
戸谷は、このような「強い責任」ではない――しかし、「無責任」でもない、その中間にあるような、排他的ではない「弱い責任」という責任観を提唱し、誰かに助けを求めるということを積極的に肯定している。
戸谷は、ハンス・ヨナス(ドイツの哲学者)による、責任を「傷つきやすい他者を気遣うこと」として、「誰の責任であるのか」よりも「誰に対する責任であるのか」という観点から説明を行う責任論を参照し、「弱い責任」の基礎づけを試みている。
「弱い責任」は、人間を「責任がある者」と「責任がない者」に区別しないもの、つまり、排他性によらない(かつ、無責任でもない)。
それは、誰かを助けたり、誰かに助けを求める行為を肯定し、人間ひとりひとりが自分らしく生きられる社会をつくろうとする上で、その基盤となりうる責任観だ。
章の冒頭で引用した例え話に戻ってほしい。
あなたに与えられた選択肢は主に二つだ。
無理をして休まずに動き続ける、それか、誰かに助けを求める。
無理をして休まずに動けば、短期的には問題は解決するかもしれないが、やがてとりかえしのつかない状態に陥ってしまうかもしれない。もし、そうなった時、子供はどうなってしまうのだろう。そうした選択は、かえって無責任といえないだろうか。
「強い責任」概念は、人間を「責任がある者」と「責任がない者」に分ける排他性ゆえに、かえって「無責任」をひきおこしてしまうという点で、問題含みであると言わざるをえない。
”作詞者「桜小路きな子」”という”排他性の檻”
第10話において、きな子に課せられた「東京大会の楽曲の歌詞をつくる」というタスクは極めて責任重大だ。それは、〈責任の主体〉として、「桜小路きな子」の中にいる大切な他の”〈責任の主体〉としてのLiella!のメンバーたち”を背負って戦うことだといえる。だからこそ、絶対に妥協は許されないものだ。
しかし、きな子は物語の冒頭以降、書こうと思ってもなかなか書くことができず、さらに自信を失っていくことになる。
作詞の話をするために恋の家に招かれたきな子は自らのおかれた現状をこのように吐露している。
きな子の意識が強く自分自身に向けられていることがわかるセリフである。他でもない「桜小路きな子」という人間がいて、その「桜小路きな子」から適切な詞が湧いて出ることが理想であり、そうであるべきだ――なのに、できない――と考えているようにみえる。
作詞は、他の創作行為と同様に”記名性(そのクオリティの責任者として名前が公に示されること)”を伴う。
”記名性”が伴う行為に孤独はつきものだ。
きな子の暗い表情からは、「書けない」現状からもがき出ようとすればするほど、かえって深く潜り込んでいってしまっている自分自身に気づきながらも、どうすることもできない――そんな、”もどかしさ”ようなものが感じられる。
閉鎖的で、排他的な世界にひとりぼっち――それはどこか、前述の「強い責任」概念がうつしだす世界に似てはいないだろうか。
東京大会で歌う楽曲の歌詞を託された”〈責任の主体〉としての「桜小路きな子」”は、その瞬間から「強い責任」世界の住人になった。
いうなれば、作詞というあてのない旅の途中で迷い込み、閉じ込められてしまった”排他性の檻”の中で、なすすべなく、ただ「書けない」焦燥感とともに、時の流れを追うことしかできない――そのようにみえる。
「ひとりじゃない」とはどのようなことか
しかし、そんなきな子に転機が訪れる。恋の励ましを受け、放課後の教室で再び作詞にとりかかるきな子は、ふと、Liella!のメンバーたちが練習を行う声に気づき、窓の方をみて微笑む。
そして、作詞で使っている「きな子のヒミツノート」に、身に覚えのないキツネを模した付箋がついていることに気づく。
そこに書かれた他のLiella!メンバーからのメッセージを見たきな子は、呟く。
きな子はそれまでの沈黙が嘘であったかのように突然、チョークを手にし、黒板にイメージを叩きつけるように描き出し、歌い出す。
それまで閉じ込められていた場所から解放されるように。
身体が動く。
自然に、言葉が、イメージが、メロディがあふれ出てくる。
なぜ彼女は解き放たれたのだろう。
それは紛れもなく、Liella!メンバーのケア(気遣い)を受け、「ひとりじゃない」ことに気づいたからだ。
その端的な事実は、きな子を”排他性の檻”から解き放つのに十分な力をもっていた。
”〈責任の主体〉としての「桜小路きな子」”がその内部において、”〈責任の主体〉としてのLiella!のメンバーたち”の存在を感じている(を背負っている)ように、他の”〈責任の主体〉としてのLiella!のメンバーたち”ひとりひとりも、それぞれ、その内部において、”〈責任の主体〉としての「桜小路きな子」”の存在を感じている(を背負っている)。
たとえ作詞を任されたのだとしても、それは「ひとりで戦うこと」を意味しない。
この時、きな子は、目覚めたように「弱い責任」世界の方へと動き出している。
『ラブライブ!スーパースター!!』3期第10話における「ひとりじゃない」とは、”〈責任の主体〉としての「桜小路きな子」”が「ひとりじゃない」ことだ。
〈生き様〉としての「桜小路きな子」
前章では、”〈責任の主体〉としての「桜小路きな子」”に着目して部分的に第10話を振り返った。
では、ふたりの「桜小路きな子」のうちのもうひとり、”〈生き様〉としての「桜小路きな子」”に着目して物語を振り返るならば、どのような解釈の地平が開かれるだろうか。
本章では、おもに、きな子が恋から次期生徒会長への立候補を願われるところからラストまでの部分を振り返っていく。
何が葉月恋をそうさせたのか
学校創設者の娘であり、有能な生徒会長であった葉月恋の後を継ぐということには、相当なプレッシャーがある。案の定、次期生徒会長の立候補者はまったくおらず、困り果てていた葉月恋はそのことを心配する友人に、「今まで頑張ってきた恋自身が”この人に託したい”と思える人を探して指名するのがいいのではないか」と勧められ、「どのような人物に次期生徒会長になってもらいたいのか」と自問自答をすることになる。
そして、恋は放課後、たまたま通りかかった教室からきな子の声を聞き、歌い、踊り、描くきな子の姿と遭遇することになる。
そして、彼女は、そのきな子の姿――「ひとりじゃない」ことに気づき、”排他性の檻”から解き放たれた自由を体現するような、その〈生き様〉――から、”何らかの力”を受ける。
東京大会の楽曲の作詞で手一杯になっている人間に次期生徒会長になるという重荷まで背負わすことの意味がわからない恋ではない。
葉月恋は、『ラブライブ!スーパースター!!』の物語において序盤は厳しい人物として描かれたが、それ以降は一貫して思いやり深い優しい人物として描かれてきた。そして、それが彼女の本質的な性格だといえる。
それでは、なぜ、恋はきな子に次期生徒会長の立候補を求めたのだろうか。
いったい、何が彼女をそうさせたのか。
「なぜ私なのか」「やりたい人がいないからではないか」と驚き、拒絶する素振りをみせるきな子に対して恋がした理由の説明においては「自分とどこか似ている」ということが強調的に語られている。
恋は、作詞のことで悩むきな子を自宅に招いて相談に乗った際に、きな子がどこか自分自身に似ているとたしかに感じとっていた。
入学当時、恋は紛れもなく「強い責任」世界の住人だった。
学校を存続させるため、より孤独を深めていった恋に手を差し伸べたのは、結ヶ丘でのスクールアイドル活動の是非をめぐって対立していたはずのLiella!の四人(かのん、千砂都、可可、すみれ)だった。そのような恋だからこそ、”排他性の檻”の中で、「書きたい」と「書けない」――理想と現実――の狭間でもがき続ける「桜小路きな子」のその〈生き様〉に、在りし日の自己の姿を垣間見たのではないだろうか。
”〈生き様〉としての「桜小路きな子」”と”〈生き様〉としての「葉月恋」”はどこか似ている。
いったい何が葉月恋を「桜小路きな子」こそ、次期生徒会長にふさわしいと思わせたのか。
それは以下の二点を通して説明されるべきだ。
①”〈生き様〉としての「桜小路きな子」”と”〈生き様〉としての「葉月恋」”は似ていること。
②恋がきな子に立候補を願うその直前に”〈生き様〉としての「桜小路きな子」”から恋が”何らかの力”を受けているということ。
そして、その”何らかの力”こそが、恋にとっての「次期生徒会長に求める力」であったことは間違いないといえる。
有能(エリート)ではない「桜小路きな子」
桜小路きな子は『ラブライブ!スーパースター!!』の物語において、”有能な人物(エリート)”としては描かれてこなかった。むしろ、やる気はあるものの、その実力においては他のメンバーに劣る人物として描かれることの多い人物だ。
Liella!に加入したときはきな子自身のパフォーマンスや体力が問題となり、また、3期第9話「ザルツブルガー・ノッケルン」においても、地区大会のフォーメーションと歌い分けを担当することになった後輩のマルガレーテによって、実力が劣るメンバーとして夏美とともに名前を挙げられてしまい、フォーメーションを端に追いやられてしまっている。
一般論として、”リーダー”には”能力”が求められる。
能力とは、端的にいうと、「平均よりも”求められている何か”ができること」「平均よりも賢く物事をすすめられること」だ。
生徒会長という役職に求められる資質はその最たるもので、葉月恋の後任ともなればなおさらだ。
生徒会長という役職に”能力”が求められることは、恋であっても、恋でなくとも、誰にでもわかることだ。
しかし、恋は、きな子の姿から”何らかの力”を受けたその瞬間に、まるで他の評価指標がどうでもよいものかのように、「きな子こそ次の生徒会長にふさわしい」と確信しているようにみえる。
これまでの「桜小路きな子」を振り返ってみてわかるとおり、そのきな子がもっている”何らかの力”が、”一般的な意味合いにおける――仕事ができる、ミスをしない、頭がいい――というような能力”ではないことはたしかだ。
では、その”一般的な意味合いにおける能力”ではない”力”とは、いったい、どのような”力”なのだろうか。
リーダーに求められる資質―社会学的見地から
社会学者の宮台真司は、共同体自治(集団の決めごとに関する話し合いの場)において求められるリーダー像として「縁の下の力持ち」をあげている。
宮台によれば、エリート主導の自治では、参加者ひとりひとりの「われわれ意識」(「これを決めたのは自分たちだ」という意識)は生まれず、導く側と導かれる側がはっきりと分かれ、理想的な話し合いの場は築かれにくく、問題が起こった際には、「あのエリートの言う通りにやったのにうまくいかない」「あれはエリートがやったことで自分たちは関係ない」という風な”外部帰属化(自分以外の何かのせいにすること)”が起こりやすい。
話し合いの場に求められるのは、理路整然と意見を提示し、周囲を納得させて”リード”するエリート的リーダーではなく、むしろ、あまり目立たないが、人々の間をとりもち、参加者たちから「この人は立派な人だ」と信頼され、コミュニケーションと場を自然に”デザイン”していけるような「縁の下の力持ち」的リーダーだ。
また、宮台はそのことを、法学者キャス・サンスティーンの「2階の卓越主義」という概念と照らし合わせて説明している。
サンスティーンは、前述の”エリート的リーダー”を「1階(直接)の卓越者」、”縁の下の力持ち的リーダー”を「2階(間接、むしろ半地下の)の卓越者」と名づけ、後者こそが求められるリーダー像とし、話し合いの場において、極論や暴論がひとり歩きしないように場の雰囲気や流れを制御し、全体の方向性をナッジ(それとなく促すこと)していけるようなファシリテーター(座回し役、場をつくる人)の重要性を説いている。
そして、宮台は、そのような「2階(間接、むしろ半地下の)の卓越者」に求められる資質について、”ミメーシス(感染的模倣)”という概念を提示している。
”ミメーシス(感染的模倣)”を生み出すことができる人こそがリーダーにふさわしい。
リーダーに能力は必要だ。認めざるをえない。
しかし、それと同じか、それ以上に、その人が人々から「こんなふうになりたい」と思われるような人物であることが必要だ。
「桜小路きな子」がもっている”力”
第9話において、夏美とともに、マルガレーテから実力不足とされ、フォーメーションを変えられてしまったきな子は奮起し、夜であるにもかかわらず、同じ状況の夏美とともに後輩であるマルガレーテを訪れ、指導を願った。
その出来事は、マルガレーテの心に深く突き刺さっている。
そして、その出来事を経て、地区大会の本番前に語られたマルガレーテの言葉が、彼女自身の変化と成長を表している。
まぎれもなく、マルガレーテはきな子(と夏実)から強い影響を受けているといえる。
そして、それは、恋から次期生徒会長を頼まれ、悩むきな子に、マルガレーテが話したことからも読み取ることができる。
第9話でみられた”「桜小路きな子」の〈生き様〉”は、ウィーン・マルガレーテという人間の根幹に揺さぶりをかけ、その人生の新たな指針としてたしかに刻みこまれている。
マルガレーテはきな子を「立派な人」として信頼し、尊敬している。
いうなれば、ウィーン・マルガレーテは、”〈生き様〉としての「桜小路きな子」”に”感染”している。
〈生き様〉としての「桜小路きな子」は、”一般的な意味合いにおける能力”ではない”何らかの力”を持っている――それは、ミメーシス(感染的模倣)を引きおこす力――いうなれば、”感染力”だ。
そして、それこそが、次期生徒会長にふさわしい理由だ。
恋が、新しい生徒会長として初めて壇上に立つきな子に小さく送った言葉。
「桜小路きな子」は「ひとりじゃない」。
それは、”〈責任の主体〉としての「桜小路きな子」”が「ひとりじゃない」ことにとどまらない。
”〈生き様〉としての「桜小路きな子」”は、周囲へ、そして後輩たちへと”感染”し、広がっていく。「私もこんなかっこいい人になりたい」と憧憬の眼差しでみられ、他者の人生に影響を与えていく。
”〈生き様〉としての「桜小路きな子」”はこれからも、その感染力でもって、”拡散”し、”増殖”していくのだ。
葉月恋があの放課後の教室でみた光景は、自分と同じように周囲に支えられ、”排他性の檻”を抜け出し、そして、なおかつ経験から得たヴィジョンや世界観を、強い感染力でもって周囲に伝える力をもつ「桜小路きな子」の姿だったのではないだろうか。
”〈生き様〉としての「桜小路きな子」”には”〈生き様〉としての葉月恋”ものっている。
そしてそれは、その強い感染力によって下の世代へと継承されていく。
あの時、放課後の教室で、恋はそう直感した。
『ラブライブ!スーパースター!!』3期第10話における「ひとりじゃない」とは、”〈責任の主体〉としての「桜小路きな子」”が「ひとりじゃない」ことであるとともに、”〈生き様〉としての「桜小路きな子」”が「ひとりじゃない」ことだ。
”涙ぐむ葉月恋”をめぐって
マルガレーテの励ましを受け、決意を固めたきな子は、早朝、恋の自宅の前まで走っていき、恋の前で次期生徒会長に立候補することを宣言する。
「結ばれる想い、これからもずっと」
その言葉を聞き、恋は、はっとして、涙ぐみ、感謝の意を伝える。
間違いなく、恋は感激している。
何が恋の心を震わせたのか。
「桜小路きな子」はこの時、葉月花(葉月恋の母)の想いに触れている。
恋にとっては、”〈生き様〉としての「葉月恋」”がのっている「桜小路きな子」がその感染力で学校をまとめてくれるだけ十分に喜ばしいことだった。
それは、あの放課後の教室での出来事以来、恋が一番望んでいたことだ。
しかし、ここで、きな子は自らの意志で恋の母に触れた。
恋から教わるわけでもなく、自らの意志で”葉月花の遺志”に触れた。
”〈生き様〉としての「桜小路きな子」”には、私だけでなく、母ものっている。
恋はそのことに気づき、涙した。
わたしは、そう考える。
それは、創設者なき新設校の困難の中で、その創設者の娘として、初代生徒会長を務めあげた葉月恋に向けた最高の贐だった。
「桜小路きな子」が生徒会長になった瞬間――というものがもしあるのだとすれば、それはお披露目の全校集会でも、書類上の手続きが済んだ瞬間でもない。
それは、まぎれもなく、きな子が自らの意志で葉月花に触れたこの”早朝の瞬間”だったのだと、わたしは思う。
改めて、「ひとりじゃない」とはどのようなことか
『ラブライブ!スーパースター!!』3期第10話における「ひとりじゃない」こととは、”〈責任の主体〉としての「桜小路きな子」”が「ひとりじゃない」ことであり、また、”〈生き様〉としての「桜小路きな子」”が「ひとりじゃない」ことであった。
”〈生き様〉としての「桜小路きな子」”は強い感染力をもっており、きな子は、葉月花と葉月恋を引き継ぐのにふさわしい人物だ。
〈生き様〉が感染していくこと。
今、改めてラブライブ!シリーズ全体を振り返るのであれば、それは、『ラブライブ!スーパースター!!』に限定されるものではないとわかる。
ラブライブ!シリーズにおいて”ミメーシス(感染的模倣)”の概念は物語の境界を越えて、シリーズに貫通する”物語の原動力”としてあるものだ。
そして、それは、虚実の境界線を越え、我々が生きる現実にも深く突き刺さる。
境界線を越えて
生きとし生けるものは、皆、”なんらかの遊びではない世界を生きるプレイヤー”だ。
仕事、勉強、夢――など、皆、多かれ少なかれ、それぞれ形は違えど、その現実において戦っている。
もし、我々が『ラブライブ!スーパースター!!』の「桜小路きな子」に共感し、感化され、感情移入し、「私も頑張ろう」と思うのであれば、”〈生き様〉の感染”は画面を突き破り、境界線を越えて作用している。
『Liella! 3期生キャスト1名 一般公募オーディション』において、当時の坂倉花(現、鬼塚冬毬役)によって語られた言葉は、”境界線を越えた感染”の存在を如実に表すものだった。
フィクションは時として、現実を生きる人に力や彩りを与える。
そのことに間違いはないだろう。
そういった意味においても、”「桜小路きな子」は「ひとりじゃない」”のだ。
境界線を越える「桜小路きな子」が作詞を担った「笑顔のpromise」は、まさに、私のため(song for me)、あなたのため(song for you)、そして、すべてのため(song for all)に歌われるものだ。
ラブライブ!は感染し、感染させる物語だ。
だからこそ今――改めて、Liella!に感染した「桜小路きな子」が決意を新にするあのシーンを振り返ろうと思う。