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「桜小路きな子」論―『ラブライブ!スーパースター!!』3期第10話における「ひとりじゃない」ことの射程


「桜小路きな子」というタイトル

2024年12月8日、NHK Eテレにて『ラブライブ!スーパースター!!』3期 第10話「桜小路きな子」が放映された。
タイトルがキャラクターの名前になったのは、TVアニメのラブライブ!シリーズ史上初のことで話題を呼んだ。
なぜ、タイトルが「桜小路きな子」なのだろうか。
あるゆる創作物においてタイトルとは、その内容の解釈を方向づけうるものだ。
だとするならば、「桜小路きな子」とは何か――に定位して、第10話を振り返ってみた時、いったい、どのような解釈の地平が開かれるだろうか。


「桜小路きな子」とは何か

「桜小路きな子」とは、何だろうか。
「桜小路きな子」は名前だ。名前とは何だろうか。名前とは、それが人間のものであるならば、その人間を他と分ける機能を持ち、頭から爪先まで、そして、生まれてから「今ここ」に至るまでのすべてを表すものとも言えるだろう。
少なくとも名前というものは、それがなんであれ、ある種の”排他性”(あるものをそれとそれ以外に分ける性質)によって成り立っているものだといえる。
そして、それは、それが語られる環境によって、その色合いを異にする。
「桜小路きな子」は、紛れもなく『ラブライブ!スーパースター!!』に登場する人物のうちの一人であり、結ヶ丘女子高等学校スクールアイドル、Liella!のひとりだ。だから、もし「桜小路きな子」を語るのであれば、ラブライブ!という大会やスクールアイドルという作中の概念を通して語られなければならないだろう。

”遊びではないスポーツ”としてのラブライブ!

2024年に14周年を迎えたラブライブ!シリーズは、一つ例外はあるものの、ラブライブ!という日本一のスクールアイドルを決する大会を目指して努力する女子高生たちの物語を描いてきた。
その物語は、「スポ根」と評されることが多い。

バカにしないで…。「ラブライブ!」は、遊びじゃない!

TVアニメ『ラブライブ!サンシャイン!!』第8話「くやしくないの?」、制作:サンライズ、放送:NHK Eテレ、2016年、鹿角理亞のセリフ(※筆者による文字起こし)

ラブライブ!は歌と踊りやアイドルとしての振る舞いを競う大会ではあるが、優勝を目指す過程での艱難辛苦を乗り越え、努力し、一度きりの舞台に立つその様は、まさに、己のプライドをかけた”遊びではないスポーツ”だ。

”遊びではないスポーツ”においてプレイヤーの名前とは何か

”遊びではないスポーツ”(それがアマチュアであれ、プロであれ)という文脈において、そのプレイヤーの名前というのは、常にある視線に曝されている。プレイヤーの名前はトーナメント表やランキング、記録表などにおいて表示され、それを見る者によってしばしば比較され、優劣をつけられることを余儀なくされる。
結果がすべての厳しい世界であるが、良い成績を収めれば、その功績は永遠に残り、称えられる。
公平なルールのもと行われた試合の結果、プレイヤーの名前は、その”責任”において、各々、語られ、評価されているといえよう。
そのような点から、”遊びではないスポーツ”におけるプレイヤーの名前とは、〈責任の主体〉の名前だといえる。
例えば、フットボールの試合で、プレイヤーがゴールを決めた時に賞賛され、その名前を称えるチャントが歌われるのは、まさに――他でもなく――ゴールが、そのプレイヤーの”責任”において引き起こされたことによる。逆に、つまらないミスをして失点を招いたプレイヤーが名指しで批判され、敗北の原因として語られてしまうことも、そのプレイヤーの”責任”において起こった悲劇であるからだ。
それがチームスポーツであるならば、ひとりのプレイヤーのミスによって、他の〈責任の主体〉たち――つまり、他のチームメイトたちを含めた全体の敗北を(巻き込むようなかたちで)招いてしまうことは起こりうるし、だからこそ、”責任”の矢印はその”ひとりのプレイヤー”に集中しやすい。
しかしながら、ミスをしたプレイヤーがいたとしても、その人を励ます温かいサポーターやチームメイトは、必ずいる。
そもそもそれまで良いプレーを続け、日々の努力を怠らない、人間として尊敬できるプレイヤーだからこそ試合に出られているのであって、たった一度のミスでそれらすべてがなかったことにはならないからだ。もし、そのプレイヤーが周囲の応援を胸に再起し、成長し、やがて大きな勝利を手にするのならば、それ以上の熱い物語はないだろう。
この時、そのサポーターやチームメイトは、プレイヤーの姿勢や態度――つまり、〈生き様〉を評価している。
”遊びではないスポーツ”において、プレイヤーの名前とは、〈生き様〉の名前でもある。
もしミスをしたプレイヤーが日々の練習を怠り、遊び惚けているような意識の低い人間だったなら、誰であっても擁護はできないだろう。
”遊びではないスポーツ”の世界では、〈責任の主体〉としてのプレイヤーと同じ程度に、〈生き様〉としてのプレイヤーが見られ、その名前が語られていく。

ふたりの「桜小路きな子」

ラブライブ!とは、”遊びではないスポーツ”のようなものだ。
そして、”遊びではないスポーツ”においてプレイヤーの名前とは、〈責任の主体〉としてあるものであり、また、〈生き様〉としてあるものであった。
そして今、立ち返って”「桜小路きな子」とは何か”を考えるのであれば、それは、同じく、〈責任の主体〉であり、〈生き様〉であるといえるのではないだろうか。
Liella!の一員である「桜小路きな子」をラブライブ!という大会やスクールアイドルという作中の概念を通して語るのであれば、それは、ふたりいることになる。
〈責任の主体〉としての「桜小路きな子」。
〈生き様〉としての「桜小路きな子」。

ふたりは混然一体となって、物語に存在している。
第10話の冒頭では、まさに〈責任の主体〉としての「桜小路きな子」が前景化された形で表れている。ラブライブ!東京大会で歌う楽曲の歌詞担当に推されたきな子は驚き、困惑し、はじめはその自信のなさから断ろうとするが、他のLiella!メンバーらの期待や後押しを受け、その場の雰囲気に流されるかのように請け負ってしまうところから、物語は始まる。
次の章では、その”〈責任の主体〉としての「桜小路きな子」”に着目して、第10話の物語を部分的に振り返っていく。

〈責任の主体〉としての「桜小路きな子」

あなたは一人で幼い子どもを育てている。仕事と家事と育児をすべて一人で担っている。毎日、戦場のような忙しさのなかで生活を営んでいる。本当だったらもっと丁寧な生活をしたいと思っている。しかしそんな余裕はない。自分のことなど気を遣わず、睡眠時間を削りながら、休む暇なく動き続けている。
ある日、あなたは体調に異変を感じる。いや、異変などはずっと前から生じていたのかもしれない。それは放っておくと、看過できない事態を招くような予感がする。しかし、だからといって、簡単に自分の都合で休むわけにはいかない。家には、あなたの世話を待っている子どもがいて、あなたに洗濯されることを待っている衣服がある。そして家の外には、あなたの仕事を待っている同僚がいて、クライアントがいる。あなたの生活は、そうした、自分では意のままにならないいくつもの大きな歯車に、完全に組み込まれている。そこには、絶望的なくらいに、余白も隙間もない。

戸谷洋志『生きることは頼ること:「自己責任」から「弱い責任」へ』講談社現代新書、2024年、3-4頁

哲学者の戸谷洋志は、近年、すっかり日本社会に定着してしまった素朴な自己責任論によって、人間が困難な状況に陥った際、誰かに助けを求めにくい状況(社会)ができあがってしまったことに対して、警鐘を鳴らしている。
現代日本に定着した素朴な自己責任論とはどのようなものか。
戸谷は以下のようにとらえている。

自己責任論は一つの人間観を前提にしている。
それは、人間とはあくまでも自律的な存在であり、またそうであるべきである、という考え方だ。人間は、他者から影響を受けることなく、自分の意志で行為することができる。そうである以上、その行為の原因はその人にしかない。そして、そのようにして引き起こされた行為の責任を、人間は自分一人で果たすことができる。
他者との関わりが隔絶され、たった一人で物事を選択し、行為し、生きる、「強い」主体としての人間――それが、自己責任論において前提とされる人間像だ。

戸谷洋志『生きることは頼ること:「自己責任」から「弱い責任」へ』講談社現代新書、2024年、6頁

戸谷は、このような自己責任論が依拠している責任概念を「強い責任」と名づけ、実社会が――刑事裁判のようなケースにおいて――その「強い責任」概念によって成り立っていることを全面的に認めた上で、それのみ●●によってすべてが語られてしまうことに異議を申し立てている。
戸谷によれば、「強い責任」がそれをそれたらしめるのは、”排他性”である。
「強い責任」は人間を「責任がある者」と「責任がない者」に区別し、「責任がある者」が他者を頼ることを許さない。人間同士の関係性を絶ち、「責任がある者」は、その責任において、孤独を余儀なくされる――べきであるという排他的な責任観である。
戸谷は、このような「強い責任」ではない――しかし、「無責任」でもない、その中間にあるような、排他的ではない「弱い責任」という責任観を提唱し、誰かに助けを求めるということを積極的に肯定している。
戸谷は、ハンス・ヨナス(ドイツの哲学者)による、責任を「傷つきやすい他者を気遣うこと」として、「誰の責任であるのか」よりも「誰に対する責任であるのか」という観点から説明を行う責任論を参照し、「弱い責任」の基礎づけを試みている。

すなわち、ヨナスの定義に従うなら、重要なのは傷つきやすい他者を気遣うことであって、その他者に責任を負う主体は原理的に誰であっても構わない●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●、ということだ。

戸谷洋志『生きることは頼ること:「自己責任」から「弱い責任」へ』講談社現代新書、2024年、114頁

「弱い責任」は、人間を「責任がある者」と「責任がない者」に区別しないもの、つまり、排他性によらない(かつ、無責任でもない)。
それは、誰かを助けたり、誰かに助けを求める行為を肯定し、人間ひとりひとりが自分らしく生きられる社会をつくろうとする上で、その基盤となりうる責任観だ。
章の冒頭で引用した例え話に戻ってほしい。
あなたに与えられた選択肢は主に二つだ。
無理をして休まずに動き続ける、それか、誰かに助けを求める。
無理をして休まずに動けば、短期的には問題は解決するかもしれないが、やがてとりかえしのつかない状態に陥ってしまうかもしれない。もし、そうなった時、子供はどうなってしまうのだろう。そうした選択は、かえって無責任といえないだろうか。
「強い責任」概念は、人間を「責任がある者」と「責任がない者」に分ける排他性ゆえに、かえって「無責任」をひきおこしてしまうという点で、問題含みであると言わざるをえない。

”作詞者「桜小路きな子」”という”排他性の檻”

第10話において、きな子に課せられた「東京大会の楽曲の歌詞をつくる」というタスクは極めて責任重大だ。それは、〈責任の主体〉として、「桜小路きな子」の中にいる大切な他の”〈責任の主体〉としてのLiella!のメンバーたち”を背負って戦うことだといえる。だからこそ、絶対に妥協は許されないものだ。
しかし、きな子は物語の冒頭以降、書こうと思ってもなかなか書くことができず、さらに自信を失っていくことになる。
作詞の話をするために恋の家に招かれたきな子は自らのおかれた現状をこのように吐露している。

自分から伝えたいことって何だろう。
自分がメッセージを発信するということを考えれば考えるほど、どうしていいかわからなくなって。

TVアニメ『ラブライブ!スーパースター!!』3期 第10話「桜小路きな子」、制作:サンライズ、放送:NHK Eテレ、2024年、桜小路きな子のセリフ(※筆者による文起こし)

きな子の意識が強く自分自身に向けられていることがわかるセリフである。他でもない「桜小路きな子」という人間がいて、その「桜小路きな子」から適切な詞が湧いて出ることが理想であり、そうであるべきだ――なのに、できない――と考えているようにみえる。
作詞は、他の創作行為と同様に”記名性(そのクオリティの責任者として名前が公に示されること)”を伴う。
”記名性”が伴う行為に孤独はつきものだ。

[暗い表情を浮かべるきな子]

きな子の暗い表情からは、「書けない」現状からもがき出ようとすればするほど、かえって深く潜り込んでいってしまっている自分自身に気づきながらも、どうすることもできない――そんな、”もどかしさ”ようなものが感じられる。
閉鎖的で、排他的な世界にひとりぼっち――それはどこか、前述の「強い責任」概念がうつしだす世界に似てはいないだろうか。
東京大会で歌う楽曲の歌詞を託された”〈責任の主体〉としての「桜小路きな子」”は、その瞬間から「強い責任」世界の住人になった。
いうなれば、作詞というあてのない旅の途中で迷い込み、閉じ込められてしまった”排他性の檻”の中で、なすすべなく、ただ「書けない」焦燥感とともに、時の流れを追うことしかできない――そのようにみえる。

「ひとりじゃない」とはどのようなことか

しかし、そんなきな子に転機が訪れる。恋の励ましを受け、放課後の教室で再び作詞にとりかかるきな子は、ふと、Liella!のメンバーたちが練習を行う声に気づき、窓の方をみて微笑む。

頑張ってるっすね、みんな。
素敵っす…。

TVアニメ『ラブライブ!スーパースター!!』3期 第10話「桜小路きな子」、制作:サンライズ、放送:NHK Eテレ、2024年、桜小路きな子のセリフ(※筆者による文起こし)

そして、作詞で使っている「きな子のヒミツノート」に、身に覚えのないキツネを模した付箋がついていることに気づく。

[付箋に書かれたLiella!メンバーからのメッセージ]

そこに書かれた他のLiella!メンバーからのメッセージを見たきな子は、呟く。

ひとりじゃない。

TVアニメ『ラブライブ!スーパースター!!』3期 第10話「桜小路きな子」、制作:サンライズ、放送:NHK Eテレ、2024年、桜小路きな子のセリフ(※筆者による文起こし)

きな子はそれまでの沈黙が嘘であったかのように突然、チョークを手にし、黒板にイメージを叩きつけるように描き出し、歌い出す。
それまで閉じ込められていた場所から解放されるように。
身体が動く。
自然に、言葉が、イメージが、メロディがあふれ出てくる。

ひとりじゃできないことだって、今、みんなのためって思ったら、頑張れる。
結んでいきたい、君の光るスマイル。
楽しい気持ち、広がれば、宇宙だって、飛んでゆける。
大好きだって、幸せだって、伝えるんだ。
もう、迷わない。
次のステージ、笑顔で踏み出そう。

TVアニメ『ラブライブ!スーパースター!!』3期 第10話「桜小路きな子」、制作:サンライズ、放送:NHK Eテレ、2024年、桜小路きな子のセリフ(※筆者による文起こし)
[きな子が黒板に描き出したイメージ]

なぜ彼女は解き放たれたのだろう。
それは紛れもなく、Liella!メンバーのケア(気遣い)を受け、「ひとりじゃない」ことに気づいたからだ。
その端的な事実は、きな子を”排他性の檻”から解き放つのに十分な力をもっていた。
”〈責任の主体〉としての「桜小路きな子」”がその内部において、”〈責任の主体〉としてのLiella!のメンバーたち”の存在を感じている(を背負っている)ように、他の”〈責任の主体〉としてのLiella!のメンバーたち”ひとりひとりも、それぞれ、その内部において、”〈責任の主体〉としての「桜小路きな子」”の存在を感じている(を背負っている)。
たとえ作詞を任されたのだとしても、それは「ひとりで戦うこと」を意味しない。
この時、きな子は、目覚めたように「弱い責任」世界の方へと動き出している。
『ラブライブ!スーパースター!!』3期第10話における「ひとりじゃない」とは、”〈責任の主体〉としての「桜小路きな子」”が「ひとりじゃない」ことだ。

〈生き様〉としての「桜小路きな子」

前章では、”〈責任の主体〉としての「桜小路きな子」”に着目して部分的に第10話を振り返った。
では、ふたりの「桜小路きな子」のうちのもうひとり、”〈生き様〉としての「桜小路きな子」”に着目して物語を振り返るならば、どのような解釈の地平が開かれるだろうか。
本章では、おもに、きな子が恋から次期生徒会長への立候補を願われるところからラストまでの部分を振り返っていく。


何が葉月恋をそうさせたのか

学校創設者の娘であり、有能な生徒会長であった葉月恋の後を継ぐということには、相当なプレッシャーがある。案の定、次期生徒会長の立候補者はまったくおらず、困り果てていた葉月恋はそのことを心配する友人に、「今まで頑張ってきた恋自身が”この人に託したい”と思える人を探して指名するのがいいのではないか」と勧められ、「どのような人物に次期生徒会長になってもらいたいのか」と自問自答をすることになる。
そして、恋は放課後、たまたま通りかかった教室からきな子の声を聞き、歌い、踊り、描くきな子の姿と遭遇することになる。
そして、彼女は、そのきな子の姿――「ひとりじゃない」ことに気づき、”排他性の檻”から解き放たれた自由を体現するような、その〈生き様〉――から、”何らかの力”を受ける。

[”何らかの力”を受ける恋]

きな子さん。生徒会長、やってみませんか!?

TVアニメ『ラブライブ!スーパースター!!』3期 第10話「桜小路きな子」、制作:サンライズ、放送:NHK Eテレ、2024年、葉月恋のセリフ(※筆者による文起こし)

東京大会の楽曲の作詞で手一杯になっている人間に次期生徒会長になるという重荷まで背負わすことの意味がわからない恋ではない。
葉月恋は、『ラブライブ!スーパースター!!』の物語において序盤は厳しい人物として描かれたが、それ以降は一貫して思いやり深い優しい人物として描かれてきた。そして、それが彼女の本質的な性格だといえる。
それでは、なぜ、恋はきな子に次期生徒会長の立候補を求めたのだろうか。
いったい、何が彼女をそうさせたのか。

(恋)きな子さんから湧き出る言葉に感銘を受けました。
この学校を託せる人と出会えたと、そう思えたんです。

(きな子)絵を描いて踊ってたら、楽しくなっちゃっただけっすよ…。

(恋)わたくしの家に来てもらった時も感じました。きな子さんは、みんなのために頑張れる優しさと頑固なくらいの強い信念があるって。

(きな子)だから、あの時似てるって…。

(恋)きな子さんが生み出した絵や言葉はとても素敵です。もっと、自信もってください。

(きな子)恋先輩…。

(恋)少しだけ、考えてみてくれせんか?

TVアニメ『ラブライブ!スーパースター!!』3期 第10話「桜小路きな子」、制作:サンライズ、放送:NHK Eテレ、2024年、桜小路きな子、葉月恋の会話セリフ(※筆者による文起こし)

「なぜ私なのか」「やりたい人がいないからではないか」と驚き、拒絶する素振りをみせるきな子に対して恋がした理由の説明においては「自分とどこか似ている」ということが強調的に語られている。

きな子さんは、少し私と似ているかもしれませんね。

TVアニメ『ラブライブ!スーパースター!!』3期 第10話「桜小路きな子」、制作:サンライズ、放送:NHK Eテレ、2024年、葉月恋のセリフ(※筆者による文起こし)

恋は、作詞のことで悩むきな子を自宅に招いて相談に乗った際に、きな子がどこか自分自身に似ているとたしかに感じとっていた。

母が遺した学校を続けるためには、わたくしが頑張るしかないのです。

TVアニメ『ラブライブ!スーパースター!!』第7話「決戦!生徒会長選」、制作:サンライズ、放送:NHK Eテレ、2021年、葉月恋のセリフ(※筆者による文起こし)

入学当時、恋は紛れもなく「強い責任」世界の住人だった。
学校を存続させるため、より孤独を深めていった恋に手を差し伸べたのは、結ヶ丘でのスクールアイドル活動の是非をめぐって対立していたはずのLiella!の四人(かのん、千砂都、可可、すみれ)だった。そのような恋だからこそ、”排他性の檻”の中で、「書きたい」と「書けない」――理想と現実――の狭間でもがき続ける「桜小路きな子」のその〈生き様〉に、在りし日の自己の姿を垣間見たのではないだろうか。
”〈生き様〉としての「桜小路きな子」”と”〈生き様〉としての「葉月恋」”はどこか似ている。

いったい何が葉月恋を「桜小路きな子」こそ、次期生徒会長にふさわしいと思わせたのか。

それは以下の二点を通して説明されるべきだ。
①”〈生き様〉としての「桜小路きな子」”と”〈生き様〉としての「葉月恋」”は似ていること。
恋がきな子に立候補を願うその直前に”〈生き様〉としての「桜小路きな子」”から恋が”何らかの力”を受けているということ。

そして、その”何らかの力”こそが、恋にとっての「次期生徒会長に求める力」であったことは間違いないといえる。

有能(エリート)ではない「桜小路きな子」

桜小路きな子は『ラブライブ!スーパースター!!』の物語において、”有能な人物(エリート)”としては描かれてこなかった。むしろ、やる気はあるものの、その実力においては他のメンバーに劣る人物として描かれることの多い人物だ。
Liella!に加入したときはきな子自身のパフォーマンスや体力が問題となり、また、3期第9話「ザルツブルガー・ノッケルン」においても、地区大会のフォーメーションと歌い分けを担当することになった後輩のマルガレーテによって、実力が劣るメンバーとして夏美とともに名前を挙げられてしまい、フォーメーションを端に追いやられてしまっている。
一般論として、”リーダー”には”能力”が求められる。
能力とは、端的にいうと、「平均よりも”求められている何か”ができること」「平均よりも賢く物事をすすめられること」だ。
生徒会長という役職に求められる資質はその最たるもので、葉月恋の後任ともなればなおさらだ。
生徒会長という役職に”能力”が求められることは、恋であっても、恋でなくとも、誰にでもわかることだ。
しかし、恋は、きな子の姿から”何らかの力”を受けたその瞬間に、まるで他の評価指標がどうでもよいものかのように、「きな子こそ次の生徒会長にふさわしい」と確信しているようにみえる。
これまでの「桜小路きな子」を振り返ってみてわかるとおり、そのきな子がもっている”何らかの力”が、”一般的な意味合いにおける――仕事ができる、ミスをしない、頭がいい――というような能力”ではないことはたしかだ。
では、その”一般的な意味合いにおける能力”ではない”力”とは、いったい、どのような”力”なのだろうか。

リーダーに求められる資質―社会学的見地から

社会学者の宮台真司は、共同体自治(集団の決めごとに関する話し合いの場)において求められるリーダー像として「縁の下の力持ち」をあげている。
宮台によれば、エリート主導の自治では、参加者ひとりひとりの「われわれ意識」(「これを決めたのは自分たちだ」という意識)は生まれず、導く側と導かれる側がはっきりと分かれ、理想的な話し合いの場は築かれにくく、問題が起こった際には、「あのエリートの言う通りにやったのにうまくいかない」「あれはエリートがやったことで自分たちは関係ない」という風な”外部帰属化(自分以外の何かのせいにすること)”が起こりやすい。
話し合いの場に求められるのは、理路整然と意見を提示し、周囲を納得させて”リード”するエリート的リーダーではなく、むしろ、あまり目立たないが、人々の間をとりもち、参加者たちから「この人は立派な人だ」と信頼され、コミュニケーションと場を自然に”デザイン”していけるような「縁の下の力持ち」的リーダーだ。
また、宮台はそのことを、法学者キャス・サンスティーンの「2階の卓越主義」という概念と照らし合わせて説明している。
サンスティーンは、前述の”エリート的リーダー”を「1階(直接)の卓越者」、”縁の下の力持ち的リーダー”を「2階(間接、むしろ半地下の)の卓越者」と名づけ、後者こそが求められるリーダー像とし、話し合いの場において、極論や暴論がひとり歩きしないように場の雰囲気や流れを制御し、全体の方向性をナッジ(それとなく促すこと)していけるようなファシリテーター(座回し役、場をつくる人)の重要性を説いている。
そして、宮台は、そのような「2階(間接、むしろ半地下の)の卓越者」に求められる資質について、”ミメーシス(感染的模倣)”という概念を提示している。

ここでキーワードとなるのは、「ミメーシス(感染的模倣)」の概念です。ミメーシスはもともとギリシャ語で、人が他者の振る舞いに対して感動や共感をおぼえ、内側からわき上がる衝動に従って同じ行動を取ろうとすることを意味します。そうしたミメーシスを惹起する力、「この人みたいな人間になりたい」と人々に思わせる力を持つことも、2階(半地下)の卓越者としての資質につながります。

宮台真司・野田智義『経営リーダーのための社会システム論:構造的問題と僕らの未来』光文社、2022年、227頁

”ミメーシス(感染的模倣)”を生み出すことができる人こそがリーダーにふさわしい。
リーダーに能力は必要だ。認めざるをえない。
しかし、それと同じか、それ以上に、その人が人々から「こんなふうになりたい」と思われるような人物であることが必要だ。

この講義の最後の最後に、お伝えしておきたい言葉があります。
「ミメーシスを起こす人間たれ」
これが僕たちからみなさんへのメッセージです。
権力をベースにトップダウンで命令を下すのではなく、人々の信頼を得て共同体自治の確立に向けて人々をエンパワーするリーダー。
利他的・倫理的で、周囲から「こんな人になってみたい」と憧れられるリーダー。
そんなリーダーにみなさんになっていただきたいという僕たちの願いを込めた言葉です。
ありがとうございました。

宮台真司・野田智義『経営リーダーのための社会システム論:構造的問題と僕らの未来』光文社、2022年、282頁

「桜小路きな子」がもっている”力”

第9話において、夏美とともに、マルガレーテから実力不足とされ、フォーメーションを変えられてしまったきな子は奮起し、夜であるにもかかわらず、同じ状況の夏美とともに後輩であるマルガレーテを訪れ、指導を願った。
その出来事は、マルガレーテの心に深く突き刺さっている。
そして、その出来事を経て、地区大会の本番前に語られたマルガレーテの言葉が、彼女自身の変化と成長を表している。

千砂都先輩は3年生最後の年と言ったけれど、私たち下級生にとっても最初で最後の「ラブライブ!」になる。
理由は、たった一つ。
11人で優勝を目指せる瞬間は、もう二度とないからです。
この11人で歌える唯一の大会。
その中でみんな、常に努力を怠らず、全員が手を取り合って前を向いている。
その姿勢の大切さを、きな子先輩と夏美先輩から私は学びました。
ありがとうございます。
私は自分と冬毬が入ったことで、「Liella!」がより一層すごくなったと感じてほしい。
より繋がった強い気持ちを、みんなに届けたい!
最高の瞬間を、今、ここに!

TVアニメ『ラブライブ!スーパースター!!』3期 第9話「ザルツブルガー・ノッケルン」、制作:サンライズ、放送:NHK Eテレ、2024年、ウィーン・マルガレーテのセリフ(※筆者による文起こし)

まぎれもなく、マルガレーテはきな子(と夏実)から強い影響を受けているといえる。
そして、それは、恋から次期生徒会長を頼まれ、悩むきな子に、マルガレーテが話したことからも読み取ることができる。

(マルガレーテ)あなたも生徒会長やってみなさいよ。向いてると思うわよ。

(きな子)へっ、どうして!?

(マルガレーテ)まあ、あなたのいうことなら聞こうかなって思えるし…。後輩の私に、「直すところを指摘してほしい」って真正面から言ってきた。私の方が年下なのに、そんなことできるってかっこいいなって思ったわ。
私も、きな子先輩のために力になりたいって思った。

TVアニメ『ラブライブ!スーパースター!!』3期 第10話「桜小路きな子」、制作:サンライズ、放送:NHK Eテレ、2024年、ウィーン・マルガレーテ、桜小路きな子の会話セリフ(※筆者による文起こし)

第9話でみられた”「桜小路きな子」の〈生き様〉”は、ウィーン・マルガレーテという人間の根幹に揺さぶりをかけ、その人生の新たな指針としてたしかに刻みこまれている。
マルガレーテはきな子を「立派な人」として信頼し、尊敬している。
いうなれば、ウィーン・マルガレーテは、”〈生き様〉としての「桜小路きな子」”に”感染”している。
〈生き様〉としての「桜小路きな子」は、”一般的な意味合いにおける能力”ではない”何らかの力”を持っている――それは、ミメーシス(感染的模倣)を引きおこす力――いうなれば、”感染力”だ。
そして、それこそが、次期生徒会長にふさわしい理由だ。

きな子さんはひとりではありませんよ。

TVアニメ『ラブライブ!スーパースター!!』3期 第10話「桜小路きな子」、制作:サンライズ、放送:NHK Eテレ、2024年、葉月恋のセリフ(※筆者による文起こし)

恋が、新しい生徒会長として初めて壇上に立つきな子に小さく送った言葉。
「桜小路きな子」は「ひとりじゃない」。
それは、”〈責任の主体〉としての「桜小路きな子」”が「ひとりじゃない」ことにとどまらない。
”〈生き様〉としての「桜小路きな子」”は、周囲へ、そして後輩たちへと”感染”し、広がっていく。「私もこんなかっこいい人になりたい」と憧憬の眼差しでみられ、他者の人生に影響を与えていく。
”〈生き様〉としての「桜小路きな子」”はこれからも、その感染力でもって、”拡散”し、”増殖”していくのだ。
葉月恋があの放課後の教室でみた光景は、自分と同じように周囲に支えられ、”排他性の檻”を抜け出し、そして、なおかつ経験から得たヴィジョンや世界観を、強い感染力でもって周囲に伝える力をもつ「桜小路きな子」の姿だったのではないだろうか。
”〈生き様〉としての「桜小路きな子」”には”〈生き様〉としての葉月恋”ものっている●●●●●
そしてそれは、その強い感染力によって下の世代へと継承されていく。

あの時、放課後の教室で、恋はそう直感した。
『ラブライブ!スーパースター!!』3期第10話における「ひとりじゃない」とは、”〈責任の主体〉としての「桜小路きな子」”が「ひとりじゃない」ことであるとともに、”〈生き様〉としての「桜小路きな子」”が「ひとりじゃない」ことだ。

”涙ぐむ葉月恋”をめぐって

マルガレーテの励ましを受け、決意を固めたきな子は、早朝、恋の自宅の前まで走っていき、恋の前で次期生徒会長に立候補することを宣言する。

[次期生徒会長への立候補を宣言するきな子と、それを聞き、驚く恋]

(きな子)きな子、生徒会長に立候補するっす!
きな子、いつまでたってもドジだし、運動も苦手だし、二年生なのに全然先輩っぽく振る舞えないし、すぐに慌てる、頼りないダメダメダメ人間です!
でも、ここにある言葉は、一緒に頑張ってきたみんなのおかげで生まれたっす!
弱気なきな子にいつも元気と勇気をくれる仲間、Liella!のみんな、そして、いつも応援してくれる学校のみんなの大切さに今回、改めて気づけたんす。
きな子は、ひとりじゃないから頑張れる。

(恋)すごいです。歌詞も完成したのですね。

(きな子)みんながきな子を支えてくれるから、きな子も支えられる存在になりたいって気持ちにつながったんす。それに気づけてからは、気持ちがスーって軽くなって、すごく笑顔になれて。

(恋)うふふ。きな子さんが作る学校は、素敵になりそうですね。

(きな子)結ばれる思い、これからもずっと!

(恋)あっ…! ありがとうございます!

TVアニメ『ラブライブ!スーパースター!!』3期 第10話「桜小路きな子」、制作:サンライズ、放送:NHK Eテレ、2024年、桜小路きな子、葉月恋の会話セリフ(※筆者による文起こし)

「結ばれる想い、これからもずっと」
その言葉を聞き、恋は、はっとして、涙ぐみ、感謝の意を伝える。
間違いなく、恋は感激している。
何が恋の心を震わせたのか。

ただ、口癖のように、同じ場所で想いが繋がっていてほしい、と。

TVアニメ『ラブライブ!スーパースター!!』第8話「結ばれる想い」、制作:サンライズ、放送:NHK Eテレ、2021年、葉月恋が母について語ったセリフ(※筆者による文起こし)

学校でアイドル活動を続けたけれど、結局、学校はなくなることになった。
廃校は阻止できなかった。
でも、私たちは何一つ後悔していない。
学校が一つになれたから。
この活動を通じて、音楽を通じて、みんなが結ばれたから。
最高の学校をつくりあげることができたから。
一緒に努力し、一緒に夢をみて、一緒に一喜一憂する。
そんな奇跡のような時間をおくることができたから。
だから私は、みんなと約束した。
「結(むすぶ)」と文字を冠した学校を、必ずここにもう一度つくる。
音楽で結ばれる学校を、ここにもう一度つくる。
それが私の夢。
どうしても叶えたい夢。

TVアニメ『ラブライブ!スーパースター!!』第8話「結ばれる想い」、制作:サンライズ、放送:NHK Eテレ、2021年、澁谷かのんが読み上げた葉月花の日記(※筆者による文起こし)

「桜小路きな子」はこの時、葉月花(葉月恋の母)の想いに触れている。
恋にとっては、”〈生き様〉としての「葉月恋」”がのっている「桜小路きな子」がその感染力で学校をまとめてくれるだけ十分に喜ばしいことだった。
それは、あの放課後の教室での出来事以来、恋が一番望んでいたことだ。
しかし、ここで、きな子は自らの意志で●●●●●●恋の母に触れた。
恋から教わるわけでもなく、自らの意志で●●●●●●”葉月花の遺志”に触れた。

”〈生き様〉としての「桜小路きな子」”には、私だけでなく、母ものっている●●●●●

恋はそのことに気づき、涙した。
わたしは、そう考える。
それは、創設者なき新設校の困難の中で、その創設者の娘として、初代生徒会長を務めあげた葉月恋に向けた最高のはなむけだった。
「桜小路きな子」が生徒会長になった瞬間――というものがもしあるのだとすれば、それはお披露目の全校集会でも、書類上の手続きが済んだ瞬間でもない。
それは、まぎれもなく、きな子が自らの意志で葉月花に触れたこの”早朝の瞬間”だったのだと、わたしは思う。

[涙ぐむ葉月恋]

改めて、「ひとりじゃない」とはどのようなことか

『ラブライブ!スーパースター!!』3期第10話における「ひとりじゃない」こととは、”〈責任の主体〉としての「桜小路きな子」”が「ひとりじゃない」ことであり、また、”〈生き様〉としての「桜小路きな子」”が「ひとりじゃない」ことであった。
”〈生き様〉としての「桜小路きな子」”は強い感染力をもっており、きな子は、葉月花と葉月恋を引き継ぐのにふさわしい人物だ。

〈生き様〉が感染していくこと。

今、改めてラブライブ!シリーズ全体を振り返るのであれば、それは、『ラブライブ!スーパースター!!』に限定されるものではないとわかる。
ラブライブ!シリーズにおいて”ミメーシス(感染的模倣)”の概念は物語の境界を越えて、シリーズに貫通する”物語の原動力”としてあるものだ。
そして、それは、虚実の境界線を越え、我々が生きる現実にも深く突き刺さる。

境界線を越えて

生きとし生けるものは、皆、”なんらかの遊びではない世界を生きるプレイヤー”だ。
仕事、勉強、夢――など、皆、多かれ少なかれ、それぞれ形は違えど、その現実において戦っている。
もし、我々が『ラブライブ!スーパースター!!』の「桜小路きな子」に共感し、感化され、感情移入し、「私も頑張ろう」と思うのであれば、”〈生き様〉の感染”は画面を突き破り、境界線を越えて作用している。

歌を歌うのが好きになったことも、アニメを観るのが好きになったことも、可愛い女の子に憧れて、「自分も努力しよう」と思ったことも、そして、好きなことを追いかける楽しさを知ったことも、全部、きっかけはラブライブ!でした。
私の人生にラブライブ!がなかったことは考えられないぐらい、ラブライブ!が本当に大好きです。

ラブライブ!スーパースター!! Liella!TVアニメ『ラブライブ!スーパースター!!』3期OP&ED主題歌 リリースイベント <1回目>URL:
https://www.youtube.com/live/WtVLtGnjouE?si=64GknTf0H5zrBLa4(※アーカイブ2024/12/31まで)『Liella! 3期生キャスト1名 一般公募オーディション』映像より抜粋(※筆者による文字起こし。)

『Liella! 3期生キャスト1名 一般公募オーディション』において、当時の坂倉花(現、鬼塚冬毬役)によって語られた言葉は、”境界線を越えた感染”の存在を如実に表すものだった。
フィクションは時として、現実を生きる人に力や彩りを与える。
そのことに間違いはないだろう。
そういった意味においても、”「桜小路きな子」は「ひとりじゃない」”のだ。
境界線を越える「桜小路きな子」が作詞を担った「笑顔のpromise」は、まさに、私のため(song for me)、あなたのため(song for you)、そして、すべてのため(song for all)に歌われるものだ。

ラブライブ!は感染し、感染させる物語だ。

だからこそ今――改めて、Liella!に感染した「桜小路きな子」が決意を新にするあのシーンを振り返ろうと思う。


(きな子)あの!

(千砂都 恋 かのん 可可 すみれ)ん?

(きな子)やっぱり、戻しませんか?

(かのん)え…?

(きな子)きな子がこんなこと言うのは、失礼かもしれないっすけど…
きな子もやっぱり「Liella!」さんたちと優勝目指して頑張りたいんす!
きな子が憧れたのは…「こんなふうになりたい」って思ったのは、優勝を目指して必死に頑張っている先輩たちなんです!
大変でも前向きに頑張っている先輩たちなんです!

(恋)ですが…。

(きな子)分かってます。でも…でも…!

[きな子に近づき、そっと抱き寄せるかのん]

(かのん)私もずっと思ってた。これが本当にいいことなのかなって。

(きな子)先輩…。

(かのん)メニューを戻したら、1年生が入ってこなくなっちゃうかもしれない。きな子ちゃん1人ってことになってしまうかもしれない。それでも、頑張ってくれる?

(きな子)…はい!

(かのん)一緒に、優勝目指してくれる?

(きな子)はい!

[きな子から離れ、千砂都、恋、可可、すみれを振り返るかのん。]

(かのん)いい?

(千砂都)私は賛成。

(きな子)きっと、伝わると思うんです。大変でも、やりたいことをつづけていれば、その先にある楽しさは大きくなるって。みんなが一緒に、やってみたいって思うものが作れるんじゃないかって!そう思うんす!

(恋)あ…。

(きな子)あ…すいません、出過ぎたまねを…。

(恋)いえ…そのとおりだと思います。

(かのん)恋ちゃん…

(恋)信じましょう、スクールアイドルの力を!わたくしたちの想いは、きっと届きます!

(きな子)はい!

(千砂都)危うく目標を見失うところだったね。

(すみれ)不覚ったら不覚だわ。

(可可)目の前のことに気を取られすぎました。

(恋)目指すべきものは変わりません!

[円陣を作る千砂都、恋、かのん、可可、すみれ。]

(かのん)きな子ちゃん!

[かのんの呼びかけに応じ、駆け寄って、円陣に加わるきな子。]

(かのん)私たちは「Liella!」! 私たちがめざすのは…!

(きな子)「ラブライブ!」!

(千砂都 恋 かのん 可可 すみれ きな子)優勝!

TVアニメ『ラブライブ!スーパースター!!』2期 第2話「2年生と1年生」、制作:サンライズ、放送:NHK Eテレ、2022年、桜小路きな子、澁谷かのん、唐可可、嵐千砂都、平安名すみれ、葉月恋による会話のセリフ(※筆者による文起こし。わかりやすさのため、場面の説明を加えた。)





















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