もらった本を継いでいく
「よさくの本をもらう会」
そのお誘い記事はまるで、おいしい餌のついたでっかい釣り針のようだった。
釣り人は、読書家でありマラソンランナーでもあり5月の文フリ東京に出ると噂のよさくさん。
先日の文学フリマ東京で、「ああ!釣りのアイコンの人!」と大阪のハーマイオニーに叫ばれた、あのよさくさんである。
ハーマイオニーの呪い呪文が強すぎて、もはやアイコンを見るたびに「釣り……じゃ、ないんだよね」と認識するようになってしまって申し訳ない。
ともあれ、そんなよさくさんが自身の本棚からあふれた本をくださるという。
この呼びかけに反応した読書好きは、みあさんと秋海まり子さん。
もちろん話題はもっぱら、私たちの共通点である本とnoteの話。
好きな本は?
読む場所は家派、それとも喫茶店派?
気に入った本は何度も読む?それとも一度きり?
noteの続け方について。
書き手としてのライバルはいる?
おすすめのnoterさんは?
よさくさんは文フリでどんな本を作るの?
そんな話で盛り上がった。
みあさん、まり子さんとははじめまして、よさくさんとは文フリで一度お会いしたとはいえ「うわーありがとうございますぅ~!あととき子さん、よさくさんのアイコン釣りじゃないと思いますぅ~」って会話しかしていなかったのに、こんなに盛り上がれるのが不思議。
帰りの電車で「あれも聞けばよかった!これも話したかった」と思い出して悔しくなるほどの、あっという間の二時間だった。
詳しい話はよさくさんの記事に書かれているので、そちらをぜひ。
自己紹介のあとは、お待ちかねのよさくさんの本紹介。
一冊ずつ本を取り出して、「これはこんな話で~」と爽やかにプレゼンしてくれるよさくさん。そのプレゼンはまるで、ビブリオバトルの決戦会場で話しているかのようだった。
あらすじの説明も、「~だからこんな人におすすめかと」という読者への手渡し方も、その道のプロの人ですか?と聞きそうになるほど。
決して押しつけがましくないけれど、本への情熱が伝わってくる絶妙な塩梅の話し方なのだ。たぶんよさくさんがその気になったら、不思議な水や高級な壺もにこやかに売りさばくことだろう。
特に感動したのは、文庫本の紹介だった。
文庫本はご存じの通り、カバーの裏にあらすじが書いてある。
私が誰かに本を紹介するとしたら絶対に見ながらしゃべってしまうのだけれど、彼は一度たりとも本を裏返さなかった。
そのすごさを実感したのは、会の数日後に会った友だちに最近読んだ本の話をしていたときのこと。
私は友だちに、ある本のあらすじを伝えた。
追加情報として「読むとりんごジュースが飲みたくなるよ!」とも言った。
なんの小説か、おわかりだろうか。
ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』である。
主人公のハンスは当然覚えているけれど、彼の悪友の名前がもうどうしても思い出せない。
そして、記憶に残った部分ばかりをやたら強調してしまう。
りんごジュースは飲みたくなるけど、お酒とはちょっと距離をおきたくなる。
そう言ったくせに私たちは、ハンスを思いながらりんごサワーを頼んだ。
人に本を勧めるのは、難しいことである。
よさくさん、プレゼンうまかったなぁ。
あらためて余韻を噛み締めながら、彼からいただいた三冊を読む。
一冊目は、片桐はいり著『グアテマラの弟』。
俳優の片桐はいりのエッセイで、彼女の弟が住んでいる中米のグアテマラを訪ねていく話。
彼女の家族は飄々としていてあたたかく、グアテマラの景色は力強く明るい。実家に帰りたいような旅に出たいような、じわりと身体がうずく本だった。
読み始めて驚いたのは、著者の立場が私の母とかなり似通っていたこと。
母の弟、すなわち私の叔父は十代のころほぼ衝動的にアメリカに渡り、メキシコ人女性と結婚し、現在はラスベガスのカジノでシェフをしている。
高校生のころ叔父の妻からスペイン語で国際電話がかかってきたことをきっかけに、私は大学で四年間スペイン語を勉強することとなった。
そして著者同様、母の家族も全員B型である。
母の母、すなわち私の祖母はそれがあまりにも嬉しくて、でかでかと「B」の字が入ったセーターだかトレーナーだかを家族全員分買ったそうである。
今度帰省するときに、この本を母に持っていきたい。
二冊目は、益田ミリ著『お茶の時間』。
イラストレーターの著者があちこちでお茶をするコミックエッセイ。よさくさんは紹介してくれるときに「なにげない話のなかで急に人生の本質を突いてくる」と言っていた。
例として挙げていたのはケーキバイキングにきた著者が皿の上のバランスを重視してデザートを選び「わたしたちは、たえず、己に自己表現を課している生きもの、なのかもしれません。」とひとりごちるシーンなのだけれど、この本はそういう、ふとした瞬間に客観的な視線が入ってくることが多い。
「楽しんだり傷ついたりしている自分」の外に「それをガラス越しに、あるいはもっと遠くから見ている自分」がいる感覚。
外から自分を見つめることは私もなるべく意識しているところなのだけれど、その感覚をいつも持てているかといわれるとそうでもない。
著者が拾い上げて共有してくれるささやかな考えごとにいつでも共感できる自信はないけれど、お茶を一杯飲む間、ケーキ一つを食べる間は私も考えごとに耽る時間を大事にしたい。
三冊目はイングリッド・フェテル・リー著、櫻井祐子訳『Joyful 感性を磨く本』。
よさくさんからもらった三冊のなかで、一番自分では手に取らなそうな本だ。
よさくさんはこの本を『人生がときめく片づけの魔法』で知られる「こんまり」こと近藤麻理恵さんの影響で読んだという。
「白い部屋に黒いピアノが置かれているために調和が取れない部屋に、馬のランプを置いてみたら一気にバランスがよくなったというエピソードが載っていて。そういう、なにそれ?と思う話も、るるるさんなら楽しんでもらえるんじゃないかと」
ちょっと待って、馬のランプって何?
よさくさんの付箋が貼られたページには、バケツハットのようなランプをかぶった馬の置き物の挿絵があった。いったいどこで買えるんだ。
もしも著者に「なんか私の部屋いまいちなのよ」と相談したとして、「ここに馬のランプを置けば完璧よ!」と言われたら、私は「あら、ほんとだわ!」って感激できるだろうか。できる気がしない。その美的感覚が、全然わからない。
「色を取り入れると暮らしがもっと豊かになる」という著者の主張自体は頷けるものの、そのセンスにはまだ到底追いつけそうもない。
「これが……おしゃれなんだ?私にはアルミホイルを着てるようにしか見えないんだけど……」と首をひねりながらファッションショーの写真集を眺めているときと似た心持ちになった。
馬のランプ以外にもよさくさんのカラフルな付箋がところどころに貼られていて、これはツッコミどころに貼ったのか、感銘を受けたところに貼ったのか、あるいは引用するつもりだったのかと考えながら読むのが楽しかった。私が笑った箇所に付箋を重ねて、誰かに貸したい。
人に選んでもらった本を読む。
それは古本屋に寄せ集められた本のなかから自分の好きそうな本を選ぶのとはまた違う、いままでしたことのない読書体験だった。
一人で楽しむだけじゃなく、誰かが一度通った気配を感じながら読む読書。
もらった本が広げてくれた世界を抱いて、いつかは私も手渡す側にまわってみたい。