祖母の戒名
この時期一番の楽しみといえば、なんといってもスーパーや図書館に飾られた七夕飾りの短冊だろう。
雨にも暑さにもめげず、短冊が飾られていそうな場所には積極的に出かけて行くし、短冊が飾られている場所を待ち合わせに指定してしまう。
私は嬉々として、なるたけ多くの人間の欲望を啜るように覗き見ている。なんだか新手の妖怪みたいだ。
今年の当たりは、図書館の児童階に飾られていた短冊だった。
私の近所の図書館は大人の階と児童の階が分かれているため、「世界平和」「家族がみな健康でありますように」「給料UP!」といった、スーパーで見かけがちな大人な短冊はほんの数枚しか見当たらなかった。
ほとんどが子どもによる、子どもの本心から出た願いごとと思われる。
「〇〇(キャラクター名)になりたい」
「猫が飼いたい」
「もう一度お年玉がもらえますように」
うふふふ、微笑ましいなぁ。
思い思いのスケールで綴られた願いに心を潤していたとき、一枚の短冊に目が釘づけになった。
「おばあちゃんになりたい」
早く年を取って老婆になり穏やかな隠居暮らしを楽しみたいという願いなのか、やまんばあさんやかぎばあさんのようなフィクションの世界のおばあちゃんに心を寄せているのか、はたまた実在するおばあちゃんに憧れを抱いていて「私もおばあちゃんみたいな人になりたい!」と思って書いたのかはわからない。
その子の心のうちはわからないけれど、私は、自分でも意識していなかった自分の願いを言い当てられたようで動揺した。
そう私は、祖母のようになりたいのである。
小学校三、四年生のころのことだ。
体育で跳び箱をしていた。
私は身体が柔らかい方だったので、両足をぱかーんと開いて4段、5段、6段と次々に飛び越えていった。
胸くらいまである跳び箱が跳べるようになるというのは純粋に気持ちがよく、また球技も走る系も苦手だった自分にも得意なものがあったのだと誇らしくもあった。
そうやって、調子に乗っていたときのこと。
「ああいうの、御開帳って言うんだって」
三人の男子の聞こえよがしのひそひそ声に、さあっと胸が冷たくなった。
彼らの言葉の意味はよくわからなかった。
ただ、卑猥なニュアンスで冷やかされていることだけはわかってしまった。
それ以降、私が跳ぶたびに彼らが盛り上がっているのを視界の端で捉えるようになり、私はあれほど好きだった跳び箱が跳べなくなった。
担任の男の先生はあれほどぴょこぴょこ跳んでいた私が一切跳ばなくなったのを心配し、なんとか理由を聞き出そうとした。
さまざまな原因候補を挙げているなかで「マットが汚いからか!?」と言われて、先生、自分が汚いと思っているマットで私たちに運動させてるんだなぁと冷めたのを覚えている。
結局母親にまで連絡が行ったものの、「御開帳」を大人に言うことは絶対にしたくなかった。ただある日突然跳び箱を跳びたくなくなった子として、母の記憶には刻まれているはずである。
国語の時間に、一人ずつ教科書を音読していた。
私は教科書が届いた途端に教科書に載っている小説だけ全部読む子どもだったから、いま読んでいる話でもうすぐ主人公の父親が戦争に行き、死ぬことを知っていた。
無難な段落を読ませてほしいという私の願いは叶うことなく、父親の死の知らせがあったことを読み上げる役になってしまった。
授業での音読というそれなりに緊張感のある場にもかかわらず、私は主人公の父親の死の痛ましさに息が詰まり、音読しながら泣いてしまった。
涙で声が震えてしまって「もう読めません」と席に座ったら「え、まじ?」「めっちゃ顔赤い」と周りの生徒がさざめいた。彼らのことが、滅ぼしたいほど憎かった。
極めつけは、百葉箱だった。
百葉箱の仕組みなどを授業で教わった後に、各班が40分ごとに百葉箱を観察しにいくことになった。
いつも通り授業が進んでいくなかで、40分に一度各班が抜け出して百葉箱を覗き、その数値をロッカーの上に置かれたノートに書き込む、という課題だった。
特別なミッションのために授業を抜け出していいというのは無性に心躍るものだった。
あと二時間後で百葉箱、あと30分で百葉箱とひそかにドキドキしながら、自分の班の番が回ってくるのを待っていた。
とんでもないことをしてしまったと気が付いたのは、お昼休み前だった。
私たちは、あれほど心待ちにしていた百葉箱の観察をきれいさっぱり忘れていたのである。班員は6人もいたのに。
震えながらロッカーの上のノートを見ると、班の番号が書かれた隣に気温を書き入れる欄があった。
当然私たちの班の欄は空欄である。
前後の班はきちんと書き記されていたのを見て、同じ班の子が「前の班と同じ気温、それかちょっと上げた気温でも入れちゃう……?」と呟く。
けれど後ろの班には、私たちが百葉箱を見に行っていないことはバレている。
ひょっとしたら、先生にだって。
帰りの会でそれぞれの班長が順々に起立し、自分たちが見に行ったときの気温を報告することになった。運の悪いことに、私の班の班長は、私だった。
名前を呼ばれて立ち上がり、「私たちの班は百葉箱を見に行くのを忘れていました、ごめんなさい」と頭を下げた。
さぞかし怒るかと思った先生は「どこかの班は忘れちゃうかなと思っていたんだ」と笑い、忘れたことを正直に言った私のことを過剰なまでに褒めたたえた。
父親が大事にしていた桜を切ったものの正直に告白したことで絶賛されたジョージ・ワシントンの話もしたと思う。
私の班が責め立てられることはなかったが、班員の、そしてクラスの視線は冷たいものだった。
「るるるちゃんは、O先生のお気に入りだもんね」
当然怒られると思った場面で怒られなかったせいで、私は針のむしろに放り込まれた心地だった。
結局担任が代わるまで、班のみんなから微妙に距離を置かれていた。
これを「いじめ」と呼ぶにはあまりにもささやかなうえに、それぞれに悪意があったかと言われると、たぶんそうとも言えないと思う。
けれどこうも立て続けに見舞われると、さすがに気力が奪われてしまう。
大人に話したところで、「そんなことで?」と言われてしまうのは目に見えている。
だからほとんど誰にも言えなかったけれど、その一方でこのまま大人になったら誰にも好かれない人間になってしまうのではないか、常に誰かを不快にしてしまうのではないかという恐怖もつきまとっていた。
母方の祖母の家に行ったのは、そんなころの長期休みだった。
何をどう説明したのかは覚えていない。
具体的な内容は明かさずに「なんだかクラスの人の一部によく思われていないみたいで」「人に嫌われない大人になりたい」みたいなことを言ったのかもしれない。
私が覚えているのは、祖母の「るるるちゃんは大丈夫よ。だって、私の孫だもの」という言葉だけだ。
実は祖母に話す以前に、友だちや先生に悩みの欠片をそれとなくこぼしていた。
けれど「大丈夫だよ」に続く言葉が、
「頭がいいから」
「優しいから」
「真面目だから」
そういう、褒め言葉なのかそうあってほしいという呪いなのかわからない言葉だったから、言いたいことがゼリー状の膜に隔たれているようなもどかしさを感じていた。
あなたが見ている私って何?
頭がよくなくて、優しくなくて、真面目じゃなかったら、こういう目に遭ってもしょうがないってこと?
そう心のなかで呟いて、ひそかに距離を取っていた。
けれど、大好きな祖母にまで同じようなことを言われてしまったら。私はどこか釈然としない思いを抱えたまま、頭がよくて優しくて真面目な人であろうと努めて、いつかグレたり、引きこもったり、していたかもしれないと思う。
「だって、私の孫だもの」は、存在の全肯定だった。
私は祖母の孫である、それは確固たる事実だ。
そして祖母は祖母自身のことが大好き、それも事実だ。
当時の私にはきっと、そういう揺るがない肯定が必要だったのだけれど、祖母がどれほど意識的にその言葉を発したのかはわからない。
案外口癖がぽろりとこぼれたくらいの感覚だったのかもしれない。
それでも、効果は絶大だった。
私はクラスメイトに嫌なことを言われても消えてしまいたいとは思わなくなったし、自分のことを恥じると祖母まで一緒に恥部化してしまうような、そんな連帯感もあるために気軽に「自分なんて」と卑下することもできなくなった。
祖母はまったく臆せず「自分のことが大好き」と言って憚らない人だった。
何かにつけて「さすが私!」「私、最高!」と叫んだし、「そんな最高な私の最高な子どもたち、そしてその子どもたちも最高!」という姿勢を言葉の端々にたっぷり含ませていた。
その自己肯定感の高さと揺るぎなさは、ときどき波乱のもとにもなっていたけれど。
自宅で取れた自慢の柿をどっさりと携えて、叔父が住むラスベガスへ渡ろうとしたときのこと。
空港でアメリカには持っていけないと捨てられてしまったことを深く恨み、「うちの柿が害をなすわけがないじゃないの」と死ぬまで憤っていた。
母が子どものころに、家族でディズニーランドに行ったときのこと。
園内で平然とおにぎりを取り出し、配り始めた祖母に母は、周りの家族はみなレストランに行っているのに!とひやひやしたらしい。
幸い見とがめられることはなかったそうだけれど、「うちのおむすびは安いうえにうまい!」と自信たっぷりに言い放つ祖母に母が気を揉むところは容易に想像できる。
その強靭なメンタルは、祖母にすい臓がんが見つかってからも健在だった。
医者を戦々恐々とさせながらも生まれ故郷の秋田を旅し、私たち孫が遊びにくればめかしこんで三越に出かけ、叔母の家に持ち込んだ医療用ベッドの上で最後まで吸い飲みでワインを口にした。
そんな祖母は墓を決め、戒名を決める段になって、祖母の本名の「ムツ子」がいいと主張した。
自分の名前が好きだから、自分のことが好きだから。
だから、死んだくらいで自分の名前を変えることはしたくない。
そんなことをのたまったそうである。
戒名を仏様のところに行くときに必要なハンドルネーム(有料)くらいにしか捉えていなかった私は、あまりに強烈な「自分へのこだわり」をくらって、ちょっとよろめいてしまった。
それほどまでに、祖母は、すみずみまでムツ子でありたかったのだ。
かなわねえや、と思った。
いま「信女」や「信士」「大姉」に囲まれて、「ムツ子」は頑固に輝いている。
力強く刻まれた「ムツ子」を見るたび私は、「私はこの人の孫だから、この苦境もきっとなんとか乗り越えられるだろう」と信じるようになった。
むしろ「この人の孫なんだから、なんとしてでもなんとかしなくてはならぬ」と固く心に誓ったこともある。
大人になったいまも私は、頭がよいわけでもないし、それほど優しくもないし、せめて真面目ではありたいものの胸を張って言えるかと言われるとそうとも言いきれない。
そして戒名に本名を選べるほど自分のことが好きかと言われると、まだ道のりは遠いように思う。
けれど「ムツ子の孫」としてだけは、揺るがずにいたい。
***
この祖母の夫である祖父の話は、こちらです。