転職を決めたら”たられば”を考えない(#転職を余儀なくされる書店員の赤裸々)
「もう少し早く、なんとかできたらよかったんですけど」
最後の出勤日まで1週間を切ったある日、バッグヤードで伝票処理をしていると、久しぶりに見回りに来た本部の上司がつぶやいた。
心意をはかりかね、振り返る。上司はパソコンの画面を見つめたまま「僕が、なんとかできたらよかったんですけど」と付け足した。
「人件費削減の方針でシフトが減り、もう生活できない」という私の退職理由への返答なのだろう。
面接し、私の入社を決めたのは彼だ。本が好きでこの職場を選んだことも伝えてある。「都村さんにも文芸を担当してもらったら?」と同僚に口添えしくれたのも彼だった。仕事を愛する従業員が辞めなければいけない状況に、責任を感じたのかもしれない。少なくとも「なんとかしてでも残ってもらいたい」と思ってもらえるくらいの働きはしているということだろう。
ぽっと希望の光がともる。
もしかして「なんとか」できるのか?
もうすぐ芥川賞直木賞の発表がある。来月には本屋大賞のノミネート作の発表もある。気合いを入れて発注した大人気ラノベシリーズの新刊も入荷してくる。
できることなら自分の手で売りたいと願った本が頭に浮かぶ。聞きすぎて耳にこびりついたレジの音が、ほくほくとした足取りで店を出ていくお客様の後ろ姿が、脳内になだれ込んでくる。
何度も想像しようとしてできなかった「内定先のオフィスで働く私」より、ずっと鮮明に。
でもそれはまやかしだ。
思い直して、頭を振る。
「いや、まあ、そう言っていただけるとうれしいです」
お世話になりましたと頭を下げ、私もノートパソコンを広げ、作業に戻る。ミスの許されない情報をタイピングしながら、動揺がおさまらない。
退職を申し出てからの期間は、周りが思っているほど無敵ではなかった。
通常業務に加えて、今のうちにやっておいてもらおうと降りかかる雑務。ギリギリの引継ぎスケジュール。進まない書類の手続きに内定先との慣れないやりとり。
実感もわかないままに浴びせられる「今さら教えても仕方ないけど」「どうせ辞めると思って気が抜けてるんでしょう」。知らぬ間に完遂された物の置き場所や作業フローの変更。これまで積み上げてきたものを少しずつ白紙に戻されていくような心もとなさ。
「なんとかできたら」なんて辞めていく人への社交辞令にすぎないのかもしれないが、垣間見た”辞めずに済む”世界は、やつれた心に甘くとろけるように寄り添い、人生を切り替えようとする気持ちを容易に砕く。
だがそんな可能性は、転職活動を始める前から内定を承諾するぎりぎりまで、脳みそから煙が出るくらい必死で探したはずだ。
バイトを掛け持ちできないか、夜な夜なバスの時刻表と求人を照らし合わせた。空いたシフトの分、人手が足りない店舗や部署の応援に入れないかとも考えた。
しのげる方法はいくらでもあった。だが、経営は年々厳しくなる。私の体力も落ちる。いつかどうにもならなくなる日が来る。もう限界だと悟ったとき、私は確実に今より年齢を重ね、キャリアチェンジに不利になっている。
本への愛情、書店員の誇り、体力・健康、スキル、金銭面、家族の事情、日本の将来、趣味とのバランス……あらゆるものをはかりにかけて、”どうにもならない”ことを呆れるほど確認して、出した結論だ。
今さらたらればを考えて、はかない期待になけなしの気力を奪われている場合ではない。
振り返るな。
選ばなかった道の先を追うな。
自分が成してきたものだけを信じろ。
油断をすれば引きずり込まれそうになる心に言い聞かせ、ノートパソコンの画面を閉じる。
間違ったことをしているのかもしれない。
決断を正解にする力も持ち合わせていない。
それでも、自分の人生について一番考えているのは、いつだって自分だと今は信じるしかない。