なぜひとりで本をつくるのか
こんばんは。猋社の佐古です。(と言っても猋社は佐古しかいないのですが)
今日は、待ちに待った1冊目の絵本『いっぽうそのころ』の束見本が製本所から届きました。
かつては目の前に溢れていた束見本…。久しぶり!という気持ちです。
おとといぐらいに、なぜわたしは本をつくることにしたのだろうかと考えてみて、少しだけ今のこたえが見えたので、記録しておきたいと思います。
わたしは今、双極性障害(いわゆる躁鬱)と、どう仲良くやっていくかを模索している最中です。
1社だけ勤めた絵本の出版社を辞めたのも、初めて鬱になったのが理由でした。そのときは、とにかく一旦全てをストップさせないとどうにかなりそうで辞める道を選びましたが、その後の鬱と向き合う時間の中で、やっぱり絵本をつくるのは楽しかったし、チャンスがあればまたやりたいとずっと思っていました。
そんなわたしが、精神的にも不安定で金銭的余裕もないのに、ひとりで出版レーベルをはじめたのは、「問題と幸せが同時に存在する世界を少しでも愛するための杖のような本を手元に置いておきたい」と思っているからです。
今もなお続くイスラエルによるパレスチナの占領、虐殺を知ってから、どうやってこの世界を愛したらいいのか、自分が不自由なく生きていることをどうやったら前向きに捉えられるのかわからなくなりました。
その方法を見つけようと必死にもがき苦しみました。だけどどこにもありませんでした。
だったら、つくるしかない。
自分で、自分の杖をつくるしかない。ひとりではできないから、誰かと一緒に。もしかしたら、その杖が、自分以外の誰かの杖にもなるかもしれない。靴に、手袋になるかもしれない。
わたしは、自分のために、自分がそれでも生きていくために猋社をやります。だからこそ、一緒に歩いてくれる作家さんたちの気持ちは最優先にしたいと考えています。
誰かの力を借りて、わたしがつくりたい本をつくるのではなく、
誰かの力が一番いいかたちで表現できるのが本であるからつくる。
もしくは、誰かの力を本で表現したときに、また別の誰かのこころがぶわっとなるなら、つくる。
それを忘れないようにやっていきたいです。
いろんなことに気づいた人は、やはり杖は自分でつくるしかないと気づいていると思います。わたしはたまたま、生きる杖に「紙の本」を選んだけど、何を選んだっていいと思います。
とらつばじゃないけど、何かを残すこと。残せば、自分がどれだけ世界に絶望して死のうが、諦めてはいなかった形跡を、のちの誰かが受け取ってくれるかもしれない。わずかな望みをそこに懸けて、足掻いてみようと思います。
さあて、ここからどんな展開になっていくのでしょうね、猋社は。
あんなことになるなんて、この頃は誰も知る由もなかったのでした。
わっはっは
では、また!
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