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「働くことに向いていない」が、容易に、命を絶つ理由になる


 私のnoteを開いてくださり、誠にありがとうございます。
 こちらのエッセイは、希死念慮の強い方が読まれた場合、症状の悪化に繋がる恐れがあります。慎重なご判断をお願いいたします。



「もっと君には向いている場所がある」

 退職の手続きをする度、上司は慰めのように言葉をこぼしていた。

 それとも適当に、決まり文句のように出てきただけのものかもしれない。いや、そんなこと思うものではない。どれほど私は、会社に迷惑をかけてきたんだ。

 仕事は遅い。真面目なくせに報連相ができない。メモは取るのに覚えが悪い。要領も悪い。頷きながら人の話を聴けるのに、それを自分自身のものに吸収しきれない。ちょっとした注意を受けただけで、嫌われたと思ってしまう。些細な言葉の棘で、涙腺が簡単に破裂する。残業をすればいいと思っている。ひとりでやりきることが、価値のあることだと思っている。困っている人を、放っておけない。自分自身が痛みで忙しくしているのに、誰かの擦り傷に絆創膏を貼るのに必死になり、自慢げにすらなっている。成果を上げることより、己を矮小だと感じないための選択に努めている。

 かなしくて、本当に馬鹿みたいだ。

 自分の心の中は暴風がいつも吹いているのに、まさか、私の存在は、ひとひらの風のように過ぎ去っていく。

「がんばれよ。応援してるから」

 不思議なもので、この会社に所属していた頃は、皆によく怒られていたのに、私がここをつとわかった瞬間、皆やさしくなるのだ。

 上司からの目線で、これからも私がこの会社の一員だと思えば、きちんと育ってくれなくては困るだろう。だから厳しくもなるのかもしれない。あの理不尽な罵詈雑言にも、必死に意味を見出そうとした。

 上司や先輩も、自身の負担を軽くしたいに決まっている。私が育てば、業績をさらに上げられるかもしれない。全体の活力が上がるかもしれない。会社とはきっとそういうものだ。平社員以上になったことのない私にはよく分かり切れない世界だ。怒られているうちが華、みたいなところだろうか。即ち、私はよくそれを枯らすのである。

 何も起きていないのに、常に「助けてくれ」と自分自身に向けて叫んでいる。些細な失敗をいつまでも引きずり、時たま訪れる賞賛を素直に受け取れない。たしかに誰かが私を掬ってくれているのに、私はぬるぬるとうなぎのように下に落ちていく。

 だけれど、鰻だったらよかったな。美味しくて、みんなが必死に手にしたくなるような食材、人材だったら、もっと違ったのかもしれない。私は繊細で、人優しいふりをして、こうして他責思考である自分に当時、いつも気づくことができない。


 ゆっくりで大丈夫だよ、ここはこうやるんだよと教えてくれた。私が今月末で辞めるとわかってから、皆手取り足取りサポートしてくれた。いや、少し違うな。誰もそんな意地悪をしていない。ぜんぶ私が悪いのだ。私が辞めるから、いけないんだ。前に倒れても、後ろに倒れても、私は自分の感情の正解がわからなかった。何がしたいんだと自分の醜さに辟易とし、肯定できる自分の感情をひとつひとつ失っていく。


*     *     *


「働くのはお休みしましょう」

 そう言われたのは、もう、何度目だろう。心療内科に通った回数は数え切れない。「休んでいい」と言われたって、お金は誰が一体、工面してくれるというのだ。

 手当を申請すればいい。だけれどあっという間に底を尽きた。働いていないので元々の収入がないのに、歳を重ねた両親を養うために仕送りをしていたので、私の口座残高は土砂崩れのように消えていく。会社を辞めていることを誰にも相談できない。そして両親は毎晩家でふたり、怒号をとどろかせながら喧嘩をしているようだった。昔からそうだった。

 枯葉を踏んだ時のような音が、心の中で響いた。

 もっと手当を受け取る方法もあったのかもしれない。国を頼って、何かしら制度があったのかもしれない。ただ心が深い水の中に落ち、息ができないのに、そんなたくましく動き回れるはずがないだろう。いのちの電話に、かけられなかった。弱いくせに、プライドだけは高い。

 学生時代にいたわずかな友人にも、連絡を取らなくなった。自分を構成するすべての要素が恥部に感じた。誰にも頼れない、頼りたくない。私はどうやら、働くのに向いていないらしい。働くことに向いていないということは、ひとりだった場合、生きていけないじゃないか。

 全員嘘つきだ。

「あなたはやさしくて、真面目だから、絶対に自分に合った職場がある」と言ってくれた人たち、私の前に用意してくれないか。それくらい分かりやすくやってくれないと、できないんだよ———

 大人なのに未だ子ども、ではない。大人になったのに、徐々に幼児化していく自分が薄気味悪かった。自分の心を制御できなかった。無垢で、芽吹くような純粋さはそこにはない。おどろおどろしい肉体を引きずりながら、私は、夜と朝の縫い目に、寝巻きのまま町を歩きはじめた。



 吸い寄せられるように電車の踏切の前まできた。

 遮断機の落ちる音がする。その棒に、手をかける。つめたかった。

 自分の中で思いつく、すぐに飛び立てる場所がそこだった。飛び込んだらとてつもない人々に迷惑をかける。若人が一企業でかける迷惑とは比にならない。でも、それでも。もう終わるのに。考えることができなかった。だってもう、私は生きていくことができないし、誰かに弱さを見せることもできないから。だったら感情をそらに渡して、抜け殻になりたい。


 ただ私は、その場でへたりこんでしまった。進めなかった。ここでも進むことのできない自分に、枯れた花がさらに乾いていくような無力感をおぼえた。そこからぽっかりと、記憶が落ちている。後日話を聴くと、私は通報され、警官に取り押さえられていたらしい。

 止めてくれると、私は走り出そうとする。誰も止めてくれないと、私は、歩き出すこともできなかった。


*     *     *


 病院の、牢屋みたいなところに私は入れられた。気づけばズボンの紐が抜かれていた。見張りみたいな人に「安静にしていればすぐに出られるよ。君は別に、罪を犯したわけじゃない」と言われた。

 顔のすべての皮膚を削ぎ落とそうとするかのように、私は静かに泣き潰れた。ひとしきり潰れたあと、私はその牢屋みたいな部屋にあった和式のトイレに小便をした。なんだかとても利口で、そんな自分に下手な笑いが込み上げてきた。ようやく、自分を客観視していた。

 私は本当に、ひとりなのだろうか。自分で作り上げていた「ひとり」なのではないか。返事をしろと、唇を千切れるほど噛んで言っている。


 深呼吸をしたら、ちいさな吐瀉物が出てきた。

 落ちるところまで、やっと落ちられたからだろうか。なんだかひさしぶりに、私はこれから、何をして生きていくのだろうと思った。それは「希望」みたいに輝いているものではなく、ただ純粋に疑問に思っただけだった。

 国語の授業で、物語の主人公の気持ちを考えるみたいにして。ただ結局、私は曲がった生徒だから「実際に主人公に聞いたわけじゃないのに、答えを決められるわけがない」と不貞腐れるのである。ただ今回の答えは、聴きにいける———


問.1
『主人公はこの後、どんな未来を掴むでしょうか』

 私はこの問いの答えがまだわからないが、どうやら私が、決めていいらしい。


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詩旅 紡
作家を目指しています。

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