残念なカスタードクリームで"私"を大切にする
手作りのカスタードクリームを、パンにたっぷり塗って食べたいなぁ。
ふと、そう思った。
普段は、あまりお菓子作りはしないので、前回作ったのは3年以上前だった。
実は、前日の朝食時にもそう思ったのだが、今から作ったのでは朝食が遅くなるし、まあいいかと辞めにした。
ところが翌朝も、やっぱり食べたいと思った。
父のことに気を配る日常を過ごしていると、こうした
"ちょっとした私の気持ち"
をスルーしてしてしまうことが多い。
いや、別に介護に限ったことではないだろう。誰しも大人になると、育児に手がかかるから、家計を切り詰めたいから、忙しいから、面倒だからと、様々なもっともな理由づけをしては、"ちょっとした私の気持ち"を無視し続ける。
そして、それに慣れてくると、チラッと思っても華麗にスルーできるようになり、そのうち自分がそう思ったのかどうかさえも気にかけることはなくなる。
そして、知らず知らずのうちに"自分の気持ち"に気づけない私になっていく。
別に、それが悪いといっているのではない。そこには、愛や誠実さや、いっぱいの優しさがあるのだ。
でも時々、そうした愛情を、意識的に「自分に」向けるようにしている。
うん。カスタードクリームを作ろう。
卵黄だけを使うとか、卵液をきちんと濾してとか、今食べたいのはそんな上品なクリームじゃない。
私が幼い頃に、昭和一桁生まれの母がたまに作ってくれた、もっと素朴な家庭のクリームが食べたかった。
スマホでレシピを検索して大雑把に作り方を把握すると、私は卵を割りはじめた。
きっと、お料理好きな人から見たら、眉をしかめられそうなくらい雑に調理を進めると、もうちょっとかな、もうちょっとかなとしているうちに、ちょっと火を入れすぎてクリームは完成した。
出来上がったカスタードクリームを、これでもかというくらいパンにのせて認知症の父と2人でかぶりつく。
ぼってりと硬めで重すぎるし、舌触りも全然滑らかじゃない。かなり残念な仕上がりに腹の中で苦笑しつつも、"中の私"が喜んでいる。
パンを食べ終わると、私は残ったカスタードクリームを、ちびちび、ちびちびスプーンですくっては、何度も何度も口の中へと運ぶ。
多めに作ったクリームが、まだだいぶ残っているところで、さすがにお腹いっぱいになってしまった。
カスタードクリームを満喫して、"中の私"は満足していた。
すると、父がチラッと器を覗き込み、まだたくさんクリームが残っているのを見て、今度は父がクリームをつまみだした。
「そんなに食べると、お腹いっぱいになるよ?」
自分のことは棚に置いて、そう父に声をかけると、
父は、ふふふとほくそ笑みながら
「旨いんだよ」
と言い、しまいには器を手に持って残念なクリームを完食した。
カスタードクリームを思う存分食べて満足という気持ちだった"中の私"が、
父を巻き添えにしたことで、してやったりといった訳のわからぬ優越感を伴い、嬉しそうに大満足で大笑いしていた。
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