旅立ちの日、僕は運転しながら「ぞうさん」をペットボトルにねじ込んだ
6年前のあの日、僕は故郷から旅立とうとしていた。そして、ひとりの人間としての尊厳を失った。成長?そんなものはない。それまでよりも、もうひと回り小さくなっただけだ。
では、何が起きたのか。車を運転しながらペットボトルにぞうさんをねじ込んだ。本当にタイトル通りのことが起きたのだ。ちなみに、あまりに都合の良い展開が続くがほぼ実話だ。あとは続きを読んで確認してもらいたい。
■無職が一念発起して上京
暑かった。7月だったと思う。その日、僕はいくらか大きめのバンを運転しながら東京を目指していた。ちょっとした揺れでさえ、たちまちギイギイときしみ出す家具や家電。バンの荷台は引越し先で使う荷物でいっぱいだった。
僕は勤めていた会社を辞めてから長らく無職だった。でも、ついに働く先が見つかった。職場は東京だ。ずっと住んでいた埼玉県からは引っ越さなければならなくなったが、お金がそれほどあったわけではない。幸いにも大型トラックに積むほど荷物は多くはなかったため、引越し作業は自力ですることにしたのだった。
しかし、そうは言っても、一人だけの引っ越しには厳しいものがある。だから、優しくて力持ちの友人に助っ人を頼んでいた。
当日の流れはいたってシンプル。「友人を拾う→高速道路を使って東京へ向かう→現地で荷物を下ろす」。たったこれだけのイージーミッションだ。難しい作業はなにひとつない、はずだった。
■かき消された「大事なサイン」
僕は予定通りに友人を拾った。彼はS君。高校の同級生だ。一足先に社会から足を洗い、自分のペースで日々を生きていた。いわゆるフリーターというのだろうか。夜勤のバイトをしながら、気が向けば僕の家にやってくる。彼が来ると、決まって朝までゲームをした。そして、朝日が昇ると近所のセブンイレブンに行き、いつも僕はまるごとバナナを買って食った。その姿を見ながら、S君は空に向かって煙を吐き出す。
無職は、孤独で不安だ。しかも、社会になにひとつ貢献しない。クソ虫みたいなものだ。ちょうどカフカの『変身』を読んでいたこともあって、ますますその感覚を強くしていた。
多忙なセールスマンだった主人公グレゴール・ザムザは、ある朝目覚めると「虫けら(『変身』/角川文庫、訳・川島隆より)」になっている。ザムザはもう仕事をすることができない。そのため職を失い、ついには家族からも疎まれ始めてしまう。そして、誰も彼に寄り添うことなく、しかも虫になった理由は最後まで明示されないままに物語の幕は閉じる。不条理文学の代表作のひとつだ。
作品の解釈はそれぞれあれど、社会の大きなルールやレールから外れた人間は、自他ともにたちまち人間ならざる者として認識されるという考えが根底にはあるかと思われる。
その点、僕は虫けらだったかもしれないが、全く不条理ではなかった。なぜなら、自らの意思で働くことを辞め、虫けらになる道を選んでいたからだ。むしろそういった状況は覚悟のうえだった。しかし実際やってみると、これがけっこうキツい。誰もなにも言っていないはずなのに、社会からの眼差しを勝手に想像し、増幅させ、それによって自らを貶めてしまう。
だがそんな時、無職の生活ペースに合わせて遊びに来てくれる友がいた。S君だった。同情や憐憫はない。彼は、僕の人生をただただ笑ってくれた。
助手席に座るS君との生産性のない会話。無職の生活に唯一麻酔がかかる時間。もしかしたらそれもこの日が最後かもしれない。ついに僕は東京へ引っ越す。そして、働く。旅立ちの日ということもあり、僕は昂りに昂っていた。
それにしても今日はやけに暑い。途中のコンビニで買ったアイスコーヒーをガブガブ飲みながら、僕はエアコンの風を強くしていた。少しだけ、違和感があった。
■アレが震え出した
高速道路に入ってから、僕の違和感はますます強くなっていった。S君とバカ話に興じているあいだも、ぬるい何かが、体の下のほう、下のほうを目指して集まり出している感じがするのだ。
「この先にサービスエリアってあるよね?」
運転席に座る男が急にそんなことを気にするものだから、S君はカーナビを確認しながらも横顔にチラと目をくれた。
「ああ、トイレ行きたいんだ?出口付近にトレイのマークが表示されてるから、たぶんそこにあるでしょ。ここから20分ぐらいで到着だって」
それならなんとか間に合うだろう。そうだ、音楽でもかけよう。少しは気晴らしになるはずだ。当時持っていた128GBのiPodをケーブルにつなげると、カーステレオからランダムで曲が流れ始めた。
それからどれくらい車を走らせただろうか。焦り始めた男をあざ笑うかのように、車中には間の抜けたような音楽が流れ続けていた。渋滞に巻き込まれたのだ。思うようにスピードが出せない中、ジリジリと延びていくトイレ到着までの予想時間。そしてついに、僕たちが乗る車は完全に止まってしまった。
本当にシャレにならない。そんな、成人男性が、車のなかで——。違う、僕はもう、虫けらじゃないんだ。最悪の事態はなんとしてでも避けなければならない。そう強く誓えば誓うほど下腹部にはますます力が入る。口数も少なくなっていった。
そんな僕を見て、S君は心配そうな素振りを見せながらも笑っていた。
「ねえ、鬼みたいな顔してるよ」
鬼……か。必死に堪えているうち、おのずと顔も恐ろしい形相になってしまっていたのだろう。自分じゃ分からないものだ。そうか、鬼って、なりたくてなるものじゃないんだなあ。
不思議と頭は冷静だったが、どうやら僕の「ぞうさん」は違うみたいだった。すでに小刻みに震え始めていた。人間が尊厳を失う前の初期微動。さすがにもうダメなのかもしれない。
■出来すぎたシナリオ
その時だった。ゆっくりではあるが、前方の車が続々と動き始めたのだ。どうしたことだろう。次第にスピードも速くなっていく。そして、気がつけばいつもの高速道路の流れに戻っていた。いいぞ、このまま突っ走ってくれ、頼む。
希望の光が差し込むと、もう少しだけ人は頑張れる。僕はそれを身をもって経験した。ぞうさんのプルプルは嘘のように収まり、僕には笑う余裕すら出てきた。
すると、カーステから聴いたことのあるクラシック音楽が流れてきた。穏やかなでシンプルな調べ。それが繰り返され、徐々に、徐々に、音が厚みを増していく。なんて清らかなんだ。
僕はこの曲を知っている。「カノン」とかいうやつだ。
ランダム再生でこの選曲。まるで「あなたはここで終わるような人間じゃない」とでも語りかけてくるようじゃないか。残すところ2km。いけるかもしれない。我慢できるかもしれない。
■そして旅立ち
ほどなくして笑いが込み上げてきた。どうして人生っていうのは、こんなにもドラマチックなのだろう。己の人生のはずなのに、全くコントロールが効かない。ただそんな時でも、映画の主人公かなにかだと信じて疑わず、こう思う。——自分だけはきっと大丈夫。
偽りの祝福を車内いっぱいに満たした車はゆっくりとそのスピードを落としていく。僕はハンドルを強く握りしめながら、肩を震わせるしかなかった。アスファルトに静かに根を張り始める車。
僕はもう、考えるのをやめにした。
「S君、やってくれるかね?」
差し出された空のペットボトル。それを見つめる彼の目は、どこか憂いを帯びていた。僕の運命に対してか。それとも自分に課された任務に対してか。それは彼自身にしかわからない。
ペットボトルを受け取った彼は人が変わったようだった。僕はつい焦せるあまり、この日履いていた短パンのチャックをなかなか開けることができなかった。すると、その不甲斐なさを叱咤する声が狭い車内に響き渡った。
「なにをしているのですか、チャックからではない、その短パンの裾から出すのです」
冷静な判断だ。そして、極めて冷酷。短パンの裾からぞうさんを出す。恥の上塗りじゃないか。だが、彼にとって僕は終わろうとしている人間なのだ。せめてチャックから——。そんな人間的な願いも虚しく、ただの虫けらに戻っていくような感覚がした。
運転席から夏の青空を眺めていると、遠くのほうに大きな入道雲が見えた。羨ましい。もし生まれ変われるとしたら入道雲がいい。灼熱の大地に大雨を降らせれば恩恵、学校の帰り道に夕立を降らせば夏の風物詩。みんな、夏の雨に優しい。
そんなことをボーッと考えながら、僕は無表情でハンドルを握っていた。S君は何も言わず僕の股間にペットボトルの口を押し付けていた。ぞうさんは、ペットボトルに窮屈そうにねじ込まれていた。
とても穏やかで、悲しい時間だった。
静謐。絹糸のような滝が、プラスチックの底へと落ちていく音だけが聞こえていた。最後にペットボトルの蓋を締めた時、中身を見ながら、ここに僕の尊厳の全てが入っているのだと思った。
失った時に初めてその輪郭があらわになるもの。そのひとつが人間の尊厳なのかもしれない。嗚呼、僕の尊厳水。世界で一番有名な赤いラベルの炭酸飲料の形をした君のことはずっと忘れない。
カーステからは、ついさっきまでぞうさんをペットボトルにねじ込んでいた僕を余計に惨めにさせる、ほんのり温かい応援歌が流れていた。
—おわり—
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