キミにはパスができない、と言われたことを栗まんじゅうと診断されて思い出した
投稿するたびに、また暑苦しい記事を書いてしまった、と反省する。
文章を書き始めると、どんどん思いが強くなって、伝えたいという気持ちが先走って、それに追いつける文章力もなくて、空回りのまま体当たりして、重苦しい記事になる。
思春期の多感な時期に太宰やら三島やら漱石ばかり読んでいたからではないかと、心は勝手にそのせいにしたがるけど、わかっています、決してもちろんそのせいなんかではありません、文豪先生ごめんなさい。
自分の気持ちを文章にしようとすると、心の奥底の、普段はあまり意識しない感情を掘り起こすことになるので、一種の根暗な部分が露呈されてしまう。
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普段の私はまあまあ明るい。
子どもとダンスだってするし、お笑いも好きだし、コーヒーの粉を朝一番キッチンマットにぶちまけても、ひとりで笑って掃除ができるくらいには明るい。誰へのアピール……。
先日、珍しく『あなたを和菓子に例えたら!』という性格診断をやってみた。普段こういうのはまったくしないので、わくわくしながら『あなたは、つぶあん派? こしあん派?』みたいなかわいい質問に答えていった。
その結果、「あなたは栗まんじゅうの、コミュ障です!」。
「……え?」
何百もある高い階段から、信頼していた人に突然笑って突き落とされたかのような衝撃。
「コミュ障……」
こんな重いこと言ってくれる診断だったのか、これ。
そして、久しぶりに思い出した。
大学生の頃、京都の有名なイタリアンでアルバイトをしていた時のことを。
そこは実力のある若手シェフがひとりで切り盛りをしていて、一時は京都を代表するイタリアンのひとつとして、お客の絶えない人気店だった。
普段はアルバイトとシェフの2人で回せるくらいの店内だけど、満席になると、てんてこ舞いの忙しさだった。その忙しさの中でもシェフは、フライパンを振りながら、鋭い目で客席とバイトの私をチェックしていた。
前菜からドルチェまで料理を出すタイミングは逃さないし、ベビーカー連れは絶対に店に入れない。
そう、シェフは切れ者であり、くせ者だった。
そして、ある日のバイト終わりに言われた。
「キミには、サッカーでいうパスができない」
と。
私はそのバイト先で、笑えていたと思う。表面上はしっかりと。うまくやっていたつもりだったのだ。それなのに、根っこの部分、クローズした心の部分をシェフに見透かされていたのだ。
恥ずかしさで震えるようだった。
穴があったら、いや、穴がなくても、バケツかボウルかに顔を突っ込んで隠れたいくらいに。
***
「パス」って、なんだ。
最近になって思うのだけど(気づくのがいつも遅い)、パスは、受けるものである一方で、出すものでもある。私は長い間、パスは受けるものだという意識しかなかった。そして思う。
パスを出すのは案外、難しい。
会社勤めの頃は、波のようにとめどなくやって来るすべてを受け止める毎日で、なかなか自分を出すことができなかった。そうやって気持ちを押し殺していた結果、次々と病気に襲われた。
忙しさのなかに楽しさを見出せなかった私の力不足のせいなのだけど、そんななか一度だけ上司にパスを出したことがあった。
「このオフィスは、酸素濃度がうすい気がします」と、相談をした。
そうしたら上司は、「観葉植物をデスクに置けば」と言った。
心のドアがパタンと閉まる音がした。
***
心をクローズにすることは、致命傷を負わないための自衛でもある。
でもそうやって自衛を固めていくうちに、ごく親しい人を除いて、他人へパスが出せない体質になってしまっていた。
分かってもらえないかも、と傷つくのを恐れて本当の気持ちを出さないようにしていたら、それが普通のことになってきて、笑った仮面を被ってでしか他人と話せなくなっていた。
それが今、私はnoteで、どろっとした気持ちも、根暗な話も、思いのままに書き連ねることができている。
そして、想いのこもった素晴らしい記事、本音の記事を読ませていただいて、心を揺り動かされている。
下手なりにもパスを出したり、パスを受けたり。
noteは、私のクローズしがちだった心に、少しは開いても大丈夫なんだよと教えてくれる。ぐにゃぐにゃのパスでも、誰かがそっと受け止めてくれている気がする。そのありがたさを噛みしめながら、今日も思いのままに文章をつづる。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
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