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息子が絵本をむしゃむしゃ食べた


だれかに本をすすめるのが、もっと上手だったらなと思う時がある。

この本、よかった? と気軽に聞かれたときでさえ、勝手にドギマギしてしまって、どんな反応がベストなのかよく分からない。

そもそも、と考える。
この人はどういった嗜好なのだろうか。
どんな性格の人なのだろうか。
私は、この人のことをどれだけ知っているのだろうか。

余計なことばかり、頭をもたげる。

くわえて、私がすすめた本によって、私自身の思考回路や性格、好みまでもがバレてしまうような気がして心配になる。いや、バレてもかまわないのだけれど、直接、口で伝えるよりも本を通して間接的に伝わってしまうのが、なんだかすごく恥ずかしいのだ。

かといって、だれかに本をすすめられると嬉しくなって飛びついて読むのだから、よく分からない。

きっと、臆病すぎるのだと思う。

王道を好きになりにくいという自覚もあるし、だれかにすすめた自分の大好きな本を、イマイチだったと言われた日にはもうきっと立ち直れない。

こころのどこかで、そう言った相手への小さな壁や違和感を作り上げてしまうような気がして、そんなふうに感じる自分が情けなくなって、それゆえ事前に前もって、本をすすめるという行為から逃げだしている。


そういえばもうひとつ、本をすすめることに自信を持てない理由があった。時間を経ることで、自分自身の感じ方や捉え方が変わってしまうということだ。

遠い昔の私にすすめられたのだと、差し出された本を見て、ええ? 私がこの本を? と、逆に思い出させてもらうことがある。その温度差に、申し訳ない気持ちになる。



***

まあ、そんなこんなでビクビクとやっているのだけど、でもやっぱり、自分が心底おもしろいと思う本に出合えたら、おもしろいよーと、大声で叫びたくはなる。

もう十数年も好きな本。
それが、長新太さんの本。

たびたび読み返しては、こころを震わされ続けている。
過去の私も、今の私も、これからの私も、きっとまちがいなく好きな一冊。



『絵本画家の日記2』


長さんの本はナンセンスと評されることが多いけど、この絵日記を読むと、<創る>ことへの誠実さをひしひしと感じ、ひりひりする。

子どもたちと対等に、どこまでも真摯に向き合い続けた在り方が、たっぷりのユーモアとともに描かれていて、読むたびに、ああ、もう、ぐぐぐ、と、苦笑いして唸るしかない。

〇月〇日・生真面目というのも困りものだ。良識派を自認しているから、正々堂々としている。児童書の選択なども、コンクリートでできたようなものばかりえらぶ。たまには悪口も書きたくなるよ。「ナンセンスに感動がありますか?」なんて詰問する。あるのでゴジャリマスヨーダ。  (抜粋)


子どもの純粋な読み方と、お金を出して本を買う母親との間で、葛藤し続けた長さん。

文章の下に描かれた絵は、どれも絶妙。シュールで、日々の苦悩に満ちていて、頭を抱えながらも、くすりと笑わされてしまう。

あけすけで、どこまでもやさしい世界。


***

とにかく長さんの絵本が大好きだったから、独身のころからちょこちょこ集め続けていた。

息子が生まれたらすぐに、まだ早いかなあと思いつつ、『なんじゃもんじゃはかせのおべんとう』をいっしょに読んだ。0歳の息子が分かるのかなあと、なかば疑問に思いながらも、長さんのダイナミックな絵を眺めるだけでも楽しいだろうよと、よく読んだ。

いつも泣き叫んでいる子だったのに、『なんじゃもんじゃはかせのおべんとう』を開けば、ふしぎと静かになった。口をあけたまま、絵をじーっと見つめる0歳。

おべんとうをほしがるオバケの木。
ぴかりぴかりとひかるエビの目玉。

毎回、食い入るように見ていた。

そしてそのうち、だらだらとよだれを垂らし、本のページを手にとったかと思ったら、かぷりとほんとうに食った。

ああ、だめだよと、口からはなしても、ふと気がつけばいつも絵本を食べていた。


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食べられたページたち。


この子はほんとうに、この絵本が好きなんだなあと思った。ほかに、ここまで食い入るように見た絵本はなかったし、食べた絵本もなかった。自分の大好きな絵本を息子も好きになったというのはとても嬉しかったし、その好きを、食べるという行為で表現した息子がなぜかすごく羨ましかった。

成長するにつれ、読んでと、いつもせがまれた。何度も何度もくりかえし読んだ。その頃には私も、半寝で暗唱できるほどになっていた。

『なんじゃもんじゃはかせのおべんとう』はいま、全ページはずれて破れて、修繕テープのあとでいっぱいだけど、その傷みが、みんなの大好きの証しのように思えて愛しくなる。


***

それから数年後の2018年、アノニマスタジオから二十八年前の対談集が復刊された。発売前から楽しみにしていた一冊。錚々たる顔ぶれはもちろん、本のサイズ感から、手触り、装丁まで、とても気持ちのよい本で、この本を手にした時、ああ、私はこれを一生大切にするんだろうなと思った。


対談がいくつも収録されているのだが、そのひとつめが、五味太郎さんと長さんだった。

このなかの、長さんの言葉にこころを奪われた。

……ひとりでに非常に心地よくね、生理的にスーッと入っていけるというか、そうしゃなきゃいけないと思うのね。それを、この絵本を読むにはかなり修練が必要であるとかいうのは、まったく滑稽であって、そういうのは間違っていると思うしね。やはり、生理的にスーッと入ってこられないといけないと思うね。                     (P.12)


絵本の読み手は、生理的に心地よく読んでほしい。
そう何度も口にされていた。

そこでハッと、0歳の息子が本を食べたことにつながった。

食べる。生理的だ。とても生理的だ。

私はおそらく頭で読む部分も多かったけれど、日々この世の不快とたたかいながら泣き叫んでいた0歳の息子は、この本を見れば笑顔になって、おべんとうを一緒に食べているような気持ちになるのか、よだれをだらだらと垂らし、むしゃむしゃとおいしそうにページを食べた。

なんだか勝手に、亡き長さんと息子が、一冊の絵本で繋がれているような気持ちになって、感動して胸がつまった。


***

『読み聞かせ』という言葉が、ずっと引っかかっている。

『読み聞かせ』と言うと、親が一方的に子に読んで聞かせるような印象を受けるけれど、子どもはきっと、もっと主体的に絵本に参加しているのではないかと思う。たとえ言葉を口に出さなくても。0歳の子どもでも、読み手として本を食べて参加しようとしたように。


今も寝る前は毎日、息子と娘と三人で寝ころがって絵本を読む。私が声を出す日もあれば、娘が声を出す日もあるし、役に分けて読む日もある。みんなで、ああだこうだ言い合って全然ページが進まないときもある。

好きなものをいっしょに、いいよねえと話せるのは、やっぱりかけがえのない時間だと思う。

本はそんなチャンスをくれる。

とりわけ、長さんの本は楽しい。
何度読んだ絵本であっても、私自身わくわくする。

ナンセンス、と言うと一瞬だけれど、長さんの本はいろんな見方や楽しさをくれる。想像だにしていなかった意外なものに胸をおどらせたり、どれだけ考えてもよく分からないものもあると感じたり、すべてのことにあまり意味はないのかもしれないと思わされたり。人生において、たいした意味はないのかもと思えることで救われるときもあるのではないかと思う。

長さんはぴゅうっとくちぶえでも吹くかのように軽やかに、そんなことを教えてくれる。

子どもへ、モノへ、生きモノへ。
愛をたっぷり含んだ風が吹き抜けていくような長さんの本が、私はやっぱり好きなのである。



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