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努力の話から、目的に対して建設的に行動ができる人は、何が違うのか

前回、簡単に努力や習慣について書いた。
今回は、それが続く人と続きづらい人では、どこが大きく違うかを簡単に書いていく。
まず結論から言うが、最も大きな違いは、目的に対する「具体性」だ。前回に書いたことの続きになるが、最も始めの段階が重要になる。その段階とは、「計画」を立てる段階だ。普通、計画は始めに立てる。ここを詰められていないことによって、当初の想定からズレていくので、習慣を変えられない、努力が続かない人は、始めから無理な計画を遂行しようとしているということだ。
これまでの活動で僕は、とにかく「抽象的な思考」、「抽象性」が大切だと言ってきた。しかし、行動というのは基本的に「具体的」だ。具体的に行動をしなければ、どれだけ優れた思考を持っていても、何にもならないということは、理解されることと思う。
思考と行動が伴う、つまり、抽象性と具体性が調和することによって、理想は現実になるということだ。
これは、どの分野にも言えることだと思う。

その、最も初期の段階で持っていなくてはならないのは、「おおざっぱなビジョン」だ。これは、抽象的な概念で良い。なんとなくあちらの方向、という感覚が頼りになる。
そこで、仮に目標を大きく二つに分けるとするなら、お金を稼ぐことか、自己研鑽だろう。
お金を稼ぐは、有名になりたいと同義だと考えて良い。

趣味の世界には、努力は存在しない。
これは僕の考え方かも知れないが、趣味と言えるほどのことがあるなら、人はなんとしてでもそれをやろうとする。むしろ、なんとしてでもそれがやりたい、と思えないことは、趣味とは言えないのではないかと思う。趣味は英語で言えば「hobby」だが、海外の人と話すと趣味に人生をかけているという印象がある。
これには、僕もほとんど同意だ。自分にとって楽しいことがあるから、まぁ生きていようかと思える。少なくとも、そう思いやすい。
ただ、なぜか日本人にとっては、こういうものを見つけることは難しいようだ。

イギリスで「あなたは何をしている人ですか?」と聞かれて、職業を答えると、怪訝な顔をされる。仕事など、人間が人生をかけてやる程の活動ではない、という価値観が一般なのだ。
仕事は、その人を表すものではない、ということ。
人を見るときに、ステータスを見ないという当たり前の社会は、人によっては楽だろう。
なぜこれが日本人にとって難しいものになったのかは、またの機会に書こう。もちろん、外国人にもいろいろな人がいるので、一概には言えないが。

趣味のために睡眠時間を減らすのは、努力ではない。
人が努力という言葉に持つ印象はもっと深刻で、「やりたくないこと」や「苦労」をいかに続けることができるか、という感じだろう。
人が日常に取り入れたい習慣は、その行動を積み重ねている間は、決して楽しいことではないはずだ。それが自分にとって楽しいことなら、有無を言わず体が動き出す。
もちろん、体力や日々の活動の忙しさなど、それぞれに条件が違いはするが、それでも楽しいと感じられることは、それぞれに対応しながらやっていくはずだ。
楽しいことを始めるには、全くエネルギーを使わない。鉄道模型のジオラマを作ることは、いつだって即座に始められる。逆に、1日くらいやらなくても「ワクワク」できるので、もうそのことが世界に存在しているだけで生きていることが楽しくなる。明日はこんなことをしよう、と考えているだけでも楽しい。
努力には、そんな楽しさは全く無い。だからこそ、「楽しんで努力をする方法とは」みたいな啓発本などが跋扈する。
はっきり言って、そんなもの探すだけ時間の無駄だ。楽しい努力など無い。なぜ楽しまなくてはならないのか?と天邪鬼でいる方が、よっぽど健全だと思う。

僕は、仕事と趣味以外にも色々とやっているが、それらは全て「お金」を稼ぐためにやっていることだ。
芸術家になりたいとか、そんな気持ちは僕には1ミリもなく、ただ自分の趣味の水準、生活の水準を上げたいから、お金が必要だと考えている。ただ、お金が好きという感情は、全く無い。無いなら無いで、その範疇で生きていける。我慢すら楽しむと思う。
僕は、現状を受け入れることが得意なのだ。

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10分もかからず読める。つまり、なんか読書した気になれます。「気になれる」ということが大切。この世の全ては「錯覚」ですからね。

最低でも、月の半分、つまり「2日に1回」更新します。これはこちらの問題ですが、それくらいのゆとりがあった方が、いろいろ良いかと。 内容とし…

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