「誰も見ていない前提で書いています」
というタイトルを付けた日記を、私は一昔前に書いたことがあった。
これは今から遡ること10年以上前、現在はおそらく閉鎖されているであろう某ブログサイトで日記なるものを書いていた頃の、なんともしょうもない話である。
その時の自分というのは、人一倍承認欲求が満ち溢れており、誰かの目にとまって欲しい、誰かから励ましの言葉を貰いたい、という自我が昼夜問わず常に漏れ出していた。
それと同時に、不慣れな環境下に置かれ続けたおかげで、とてつもなく情緒不安定だった。いつどこで誰かに、21世紀の精神異常者などと揶揄されてもおかしくないほどのネガティブを、なかなか解消されることのない肩こりと一緒に抱えていたと思う。
そんな渦中で当時の自分は一体何を思い立ったのか、冒頭のような重苦しい(?)あるいは印象が問われる冠のついた日記を、何の脈絡もないまま世に放ったのである。
ただ、逆の意味でインパクトのありそうなタイトル前面に出したにも関わらず、どんな内容を書いたかは正直なところ覚えていない。とはいえ、あの時どういう心境でもって言葉を綴っていたかだけは、なぜか記憶が残っている。
結局、その後ろ向きな姿勢が滲み出ている日記とやらは、自分が思うような結果に結びつくことはなく、反応においても非常に冷ややかなものであった。それを今さらになって振り返ってみたら…いや、わざわざ言葉にするまでもなく至極当然のことだった。
他人に対して、自我を取り乱したまま書き殴ったような一つの読み物を、誰がスキ好んで読もうとするのか。その程度の考え方で、一人でも多くの人に見向きされると希望的観測を抱いているのなら、それはただの思い上がりか痛々しいくらいの勘違いでしかない。
もしも過去に戻れるとしたら、手の施しようがないぐらいに根暗だった自分を、引っ叩く勢いでもって説教をかましてやりたい。書いた日記が誰にも見て貰えないと嘆くなら、自分は誰にも相手されない悲しい人間だと蔑むなら、まずそれらの邪念を消し去れと。
そして、余計なお世話だとわかっているうえで、こう続けるのかもしれない。いくら自分の置かれている立場が悲惨なものだからといって、誰かが必ず見に来てくれるなどと、安易に考えようとするべきではない。
他人を気にしたり縋ってばかりでは、自分の望んだ未来に結びつくことなど、決して無いということを。
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