私は双極症を受け入れ前向きに生きる
はじめましての方ははじめまして。こんにちは。森国司(モリクニツカサ)です。
双極症当事者です。躁うつの波と上手く付き合い生きていこうと前向きに試行錯誤しています。同じような悩みや苦しみを抱える方の励みになればと思い活動しています。
この記事では、自分が双極症だということを受け入れているのかどうかについて考えたいと思います。
双極症と私の関係性
私は双極症です。話す時も頭の中でも、このように表現しがちです。
私は双極症という特性を持っています。
単なる表現の違いですが、私はとても重要な観点だと考えています。
私は双極症という特性を持っています。あと中肉中背で、髪の毛は黒く、視力は悪めでコンタクトをしています。
これぐらいフラットに考えられるようになりたいと思っています。正直なところ、まだ自分でも双極症であることを過度に気にしている時があると思っています。今書いているこの記述も自分にそう言い聞かせようとしている側面は否めません。
ですが思い込みの力はすごいので、私はあくまで自分は「双極症という特性を持っている」のだと理解するように努め続けます。
ここでいう「体質」と「特性」は同じ意味合いだと思っています。
病気というよりも、特性もしくは体質だということです。
受け入れ始めたきっかけ
基本的には、私は双極症であることを受け入れていると思います。以前は散々考えた「もし双極症じゃなかったら〜だったのに」といったことを考える回数はだいぶ減りました。
発症した頃は何度も何度も考えていました。「もし双極症じゃなかったら、留年もせず他の人と同じピカピカした人生だったかもしれないのに」と自分の人生を呪いました。
今でも頭によぎることはありますが、「そんなたらればには意味はない」と考えないようにすることができています。
社会に出て、双極症とどうにかこうにか付き合いながら生きている間に、気付けば双極症であることが徐々に気にならなくなっていました。がむしゃらに働いていたので、双極症のことを気にしている暇がなかったのかもしれません。
とはいえ、働いている間でもうつや軽躁の症状が出ることもあり、職場の人たちの理解もあり、どうにかやり過ごしていました。そんな時も、どうにかやり過ごすことに必死で双極症であること自体に否定的になることはあまり無かったように記憶しています。
この頃は、受け入れているというよりも、双極症であることと深くは向き合っていなかったんだと思います。否定というよりは、目を背けていた感じです。もう大丈夫だと思い込みたかった。そんな表現が一番近いかもしれません。
大きな波を経て見えたもの
その後、発症以来の大きな躁うつの波を体験しました。躁の時は現実と妄想の区別がつかず、うつの時はベッドからほとんど出ることができないぐらいになってしまい、仕事もお休みするしかありませんでした。躁が明けて、うつが少しは回復してきたぐらいで、あらためて向き合うことになった双極症という病気について考えました。
私は双極症という特性を持っている。社会的な活動に対して多かれ少なかれ制約がかかってしまっている。だけど、大切な家族と毎日を過ごすことができている。将来が不透明な部分もあるけれど、きっと何とかすることができる。
今ではそう考えるようにしています。
過去や未来に執着し過ぎても意味がなく、現在をひたむきに真摯に生きよう。かねてからやりたいことがあるならそれをやることも含めて一生懸命生きよう。そのように考えるようになりました。
私が大事にしているのは、「前向きに、ひたむきに、そして真摯に生きる」ことです。
おわりに
今回の記事では、双極症という病気を体質や特性として受け入れ、前向きに生きようとしているということについて書きました。いかがでしたでしょうか。
何か少しでも、気づきや発見があればいいなと思います。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。