20240913 イラストエッセイ「私家版パンセ」0050 たくさんの情報を手に入れることが良いこととは限らない
40年前、大学を卒業してビール会社の営業マンになり新潟に赴任した時、あせりのようなものがありました。
時はバブル。東京では毎日のように新しい消費の形態が生まれ、新しい業態が生まれていました。
カフェバーとか、プールバーとかね、それまでになかったようなお酒の飲み方が生まれていました。そして、時代の寵児たるコピーライターの糸井重里さんなんかが、新しい発想で面白いコピーを連発していました。
一方、40年前の新潟は、戦前、いや江戸時代から変わらないような生活がまだ残っていたんです。 笑 (決して馬鹿にするのではなく、敬意を込めて)
ビールの営業で地方の酒屋さんを回ると、まずコタツに招じ入れられ、お茶をすすめられます。店先では、牛乳配達のおじさんが、チーズをつまみにカップ酒を飲んでいます。(酒屋で飲むという文化があったのです)
囲炉裏の火で真っ黒な神棚には、これも真っ黒な大黒様がこちらを見ている。
「最近売れる商品はありますか?」と店番のおばあさんに尋ねると、
「そうだねえ、ポテトチップがよく売れるねえ。」といいます。
「ポテトチップ?」どういうことだろう、と思っていると、
「これだがね」と奥から出して来る。
「あ、ポカリスエット…」
そんなのどかな日々。
こんなことをしていたら、時代に取り残される。
若かったぼくは、そんな焦りを持ちました。それで、雑誌を何誌も読んで、最新のトレンドを勉強したりしたものでした。
でも、やっぱり限界があるんです。
時代の空気は肌で感じないとダメなんですね。東京にいる同期たちは時代の風を浴びながら日々仕事をしており、雑誌で読んだって何も分からないんです。
それでぼくは思い切って方針を転換することにしました。
都会の連中にできなくて、田舎でしかできないことをやろうと。
で、たどりついたのが、「古典に親しむ」でした。
東京の人たちは毎日目まぐるしく情報が行きかい、忙しすぎでじっくり古典を読む暇はないはずです。
せっかく雑音の少ない田舎にいるのだから、ここはじっくり腰を据えて古典に親しもうと。今結果はでなくても、いつの日か人間の肥やしになるに違いない。そう思ったんですね。
それで、「聖書」は3回通読しました。西遊記、水滸伝、史記から始まって、ドストエフスキイ、トルストイ、ジェームズ・ジョイスなんかをしっかり読みました。音楽では、地方回りは営業車に乗っている時間が長いのですけれど、西洋音楽の最高峰と言われているけれど、長くてあまり聞かれない、バッハの「ロ短調ミサ曲」を百回以上繰り返して聴きました。 笑
情報化社会では毎日膨大な情報が体の中を流れてゆきます。危険なのは、ただそれだけで充実しているような気持ちになってしまうことだと思います。情報を得ているだけで何か自分が立派になったような錯覚を覚えてしまう。
あたかも鯉のぼりが風を体の中に流すことによって立派に見えるけれども、一度風が途絶えれば、体は見る見るしぼんでしまうように。
情報をただ取り入れていても、自分という内実は育っていないんです。
ぼく自身の経験から言えば、本当の肉体を作り上げるものは勉強と読書、そして訓練と生きた経験です。
これはこいのぼりではなく、本物の、みっしりと肉の詰まったコイになるための唯一の方法です。
今風に言えば、スマホを見るだけではなく、本を読みましょう、ということになります。
さて、古典を学んだぼくはどうなったか。
結局、現地離職して高校の先生になってしまいました。 笑
ちょっと人生が豊かになりすぎちゃったみたいです。 笑
私家版パンセとは
ぼくは5年間のサラリーマン生活をした後、キリスト教主義の学校で30年間、英語を教えました。 たくさんの人と出会い、貴重な学びと経験を得ることができました。もちろん、本からも学び続け、考え続けて来ました。 そんな生活の中で、いくつかの言葉が残りました。そんな小さな思考の断片をご紹介したいと思います。 これらの言葉がほんの少しでも誰かの力になれたら幸いです。