
イラストエッセイ「私家版パンセ」0068 「得るものと失うもの」 20241128
「人生は等価交換」というエッセイ(下にリンクを貼っておきます)でも書いたことですけれど、何かを得ると言うことは、何かを失うことなんですよね。
例えば家を建てるということは、安住の地を手に入れることですけれど、「放浪の自由」を失うということです。恋人を手に入れるということは、別の人との出会いを失うということです。
事業で成功して地位や金や高級車を手に入れるということは、古い友人と河原を散歩しながら(効率とか生産性と関係のない)お話しをしたり、小さな子供や年取った両親の言葉に耳を傾ける時間を失うということです。
得たものが大きければ大きいほど、失うものは大きい。
わたしたちはスマートフォンを手に入れて、無償の娯楽を手に入れましたが、あまりにも大きなものを失ったというか、あまりにも高い代償を払っていると思います。嘘と誹謗中傷の世界。社会的分断。承認欲求の奴隷となる人々。依存症。
人間には体は一つしかありません。一日は二十四時間しかありません。何か新しいものを手に取ろうとすると、今持っているものを手放さなければならないんです。(頑張れば三つか四つぐらいは持てるかな。笑)
でも人は普通、失うもののことを考えずに思わず欲しいものを手に入れてしまいます。
昔は「欲望」は悪いものだったんです。欲望は制御されるべきもの。自制心とか克己心が美徳でした。社会が貧しかったので、欲望の充足を人生の目的にすることは物理的にも不可能だったんです。欲望には限りがないので欲望の充足を幸福と考えると、絶対に幸福には到達できないということもあります。
賢者とか、聖人というのは、要するに自分の欲望に打ち克つことが出来る人のことでした。精神性は欲望よりも高い次元のものだとずっと思われてきました。
ところが資本主義が成熟し、消費社会が進行すると、欲望の充足は社会にとって不可欠なものになりました。資本主義の命は「成長」です。欲望こそ「成長」の原動力です。欲望は美徳になったんです。
それをひしひしと感じたのは、1990年ぐらいからかな。共産主義が滅び、日本ではバブルがあった頃から。
ということもあって、人は何かを得ることに対して無反省になった、ということが言えると思います。
そして多くのものを失ったんです。
だとすると、ですよ。
何かを手放すことは、それと同じくらい大きなものを手に入れる、ということが言えるんじゃないかな。
断捨離とかミニマリストが言いたいことはそういうことですよね。
でもこういうことを今の時代に言うと、「反社会的」と言われるかも知れないなあ。

私家版パンセとは
ぼくは5年間ビール会社でサラリーマン生活をした後、キリスト教主義の学校で30年間、英語を教えました。 たくさんの人と出会い、貴重な学びと経験を得ることができました。もちろん、本からも学び続け、考え続けて来ました。 そんな生活の中で、いくつかの言葉が残りました。そんな小さな思考の断片をご紹介したいと思います。 これらの言葉がほんの少しでも誰かの力になれたら幸いです。