世界一脆い、ダイアモンド
「ねえ、大きくなったら何になりたい?」無邪気に問いかける姿は、いまだ少女のようで。そんな彼女にわたしは答える。「いつか、必ずエッセイストになるよ」誰にも言ってこなかった秘めた想いを、震えながら口に出した。彼女は静かに微笑んで、「やっぱりあなたは、どうしようもなく"あなた"だね」とつぶやく。
金木犀の香りが微かにする、大学のカフェテリア。テラスで交わした、二人にとってはじめての約束だった。
*
彼女は初めて会った時から、発光体のように光っていた。
わたしはその頃からド派手なファッションがだいすきで、ピンクのボブヘアにサングラスをかけて大学に通っていた。一方、彼女は薄い茶色の豊かなロングヘア。女子アナのような清楚なワンピースがよく似合う、大人しい女の子。
そんなわたしたちは語学の授業で前後になった。
周りから見ればおかしかっただろう。けれどわたしたちは、言葉を交わし始めてすぐ、雷に打たれたように惹かれあった。きっとそれは、言葉の"温度"が同じだったから。愛や悲しみ、喜びや悔しさには、温度がある。感情からこぼれ落ちる言葉たちは、鮮やかで繊細で、あたたかい。その温度を求めてしまう、世界のはぐれもの。孤独な旅人が故郷を見つけたような、そんな感覚。
わたしたちは、あっという間に恋に落ちた。でもそれはきっと、一般的な恋愛感情ではなかった。友情、恋、愛、憎しみ。まるで前世で同じ人間だったかのような感情。理解されることなどないとわかっていてなお、わたしは彼女を"恋人"であり"親友"と呼ぶ。
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とても真面目な彼女は、授業をサボったことがない。いつも背筋をピンと伸ばして授業を受ける。そのうなじが美しくて、よく見つめたものだった。料理が得意で毎日お弁当を持参する彼女。栄養バランスの整った、すこしおばあちゃんのようなメニューは、彼女の生活が垣間見え、愛おしくなる。
一方わたしは、酒の飲み過ぎだの、特別天気がいいだの、雨が降ってるだの、理由をつけては授業をサボった。試験前だけ彼女に泣きつき、自炊もせずに酒と煙草ばかりのんでいる。
後から聞くと、彼女はよく友達に心配されていたらしい。「カツアゲとか、されてない…?」それほどまでに不釣り合いな組み合わせ。わたしたちは裏で笑う共犯者のように、青春という名のキャンパスをともに駆け抜けた。
そんな彼女が一度だけ、授業をサボったことがある。
あれは、秋晴れの美しい午後だった。「ねえ、サボらない?」何百回と誘っては断られてきたセリフを、わたしは飽きもせずに言う。その日の彼女はすこし違った。「うん、そうしようかな」俯きがちに言う彼女。わたしはびっくりして、ええ!?と思わず大声を出す。なんで、誘ったのそっちじゃん!と彼女は笑う。
彼女の気が変わらないうちに、と急いでティータイム。クマの形をしたクッキーを買い、紅茶をテイクアウトして芝生に座る。ワクワクとトキメキが止まらないわたしは、クッキーの味なんてそっちのけだ。
満面の笑みで彼女を見つめていると、「あのね」とつぶやく。どうしたの?と言う言葉を待たずに、彼女は堰を切ったように喋りだす。
彼女は愛されていると思えたことがない、と言う。わたしも彼女も複雑な家庭で育ち、痛みで全身傷だらけ。血が滴るようなハートを抱え、お互いに言葉という包帯を巻きあった。「わたしが、あなたを、愛してるよ」言葉が自然とこぼれ落ち、わたしはすこし後悔する。けれど、彼女は穏やかに微笑んでくれた。まるで、夕陽のようだった。
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そして、わたしたちは夜へと駆け出した。誰もわたしたちを知らない、遠い街へと。
着いた先は、ネオン街。排気ガスと湿った夜の匂いも、今夜は甘い香水のよう。いつもなら簡単に見つめあえるのに、その夜だけは二人ともそっぽを向いていた。それでも、繋いだ手は離さないままで。
バリ風のホテルへ、まるで女子会のような顔をして入った。その頃遊び呆けていたわたしは何度も訪れたホテルだったけれど、彼女にとっては初めての体験。見るものすべてに喜ぶ彼女が可愛くて、笑みを隠すように煙草に火をつける。美しい彼女が隣にいることが嬉しくて、ただ穏やかに眠った。この世界の片隅で、箱に入れられた子猫のように寄り添い合う。その時間はまるで永遠。
「今日記念日なんです」とわたしがフロントに電話をかけると、彼女は驚いた顔をする。記念日なんてあったっけ?と問われ、わたしは「今日、初めて一緒に眠る記念日だよ」と笑う。そんなわたしの適当さ加減に、彼女はらしいね、と半分呆れ顔。記念日は無料プレゼント!と大きく書かれたチラシのおかげで、小さなワインボトルをゲットする。
泡風呂なんて入ったことない!と言う彼女を連れて、ホテルのバスタブを泡いっぱいにする。二人、ワインを傾けながら泡を飛ばしあう。抱きしめた彼女は、腕のなかでちいさく、脆く、それでいて光っていた。
「世界一壊れやすい、ダイアモンドみたいだ」
そう胸の中で思った。
ベッドで煙草に火をつけながら、わたしたちは何時間も語り合った。わたしはその頃からものを書いていて、彼女にだけこっそり見せていた。
「あなたは、もの書きになるべきだよ」と普段控えめな彼女が、語気を強くして言ってくれるたびに、世界でいちばん特別だと思えた。
窓から見えるビル群には、明かりが小さく灯る。この一つ一つの輝きに、命が宿っていることを不思議に思いながら、わたしたちは裸で眠った。
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彼女と寝たのはその一度きり。それでも、不安に思うことはなかった。わたしたちの関係性が誰にも分かってもらえることはなくても、わたしは彼女を知っていたから。
そして、金木犀が香る頃。"就職活動"という四文字がわたしたちを襲った。彼女は苦しんでいたし、わたしも未来が見えず闇のなかにいた。
そんな時、初めてちいさな雑誌にわたしのエッセイが載った。いちばんに報告した彼女は、誰よりも喜んでくれ、雑誌を買って大事に抱えてくれた。
「わたし、エッセイストになるよ」迷うことなくそう言えたのは、彼女がいたからだ。そしてそんなわたしを笑うことも疑うこともせず、ただ"あなた"だと言ってくれたこと。それがなによりもわたしの宝物だ。
*
卒業後、わたしと彼女は離れて暮らしている。彼女は結婚したし、わたしに関しては結婚も離婚もした。そして今も、わたしには男性の恋人がいる。
わたしも彼女も、名前のつかないわたしたちの関係が、名前がつかないままでいてほしいと思っている。恋や愛、友情や別離。そんな風に白黒つけることなく、わたしたちはわたしたちのままでいたい。
強いていうならば、と問われることがある。そんな時、わたしは彼女を「ミューズ」と呼ぶ。ダリにとってのガラのように、ゴーギャンにとってのテフラのように。
彼女の生真面目さと繊細さ、炎のような情熱はわたしをいつも冷静でいられなくさせる。その動揺から生まれる言葉が、わたしにとってなによりも純なものだと思う。
わたしと彼女はきっと、永遠に結ばれることはない。それは、確かなことだ。けれど、それでもわたしたちは幸せで、満たされている。前世があるとするのなら、同じ人間だったのだと信じられるひとが、この世界にいること。その事実だけで、わたしは今日も息が吸える。
世界一脆いダイアモンドが、どうか永遠に輝いているようにと、星に願いをかける。そして彼女もまた、わたしがエッセイストだと名乗れる日が来ることを、星に願いをかけている。
彼女の薬指に輝くダイアモンド。わたしがはめてあげられなかったのを、苦しく思う夜もある。けれど、彼女の輝きは世界のどこを探してもどこにもないことを知っているから。
その輝きを頼りに、わたしは今日も言葉を紡ぎつづける。