【映画感想】永い言い訳 西川美和

永い言い訳を観た。

胸のあたりが詰まるような映画だった。
心の複雑さとか、ままならなさを真剣に描こうとするクリエイターの作品はたまに観るくらいじゃないと、日常に支障をきたしそうだ。
それくらい力がある作品だと思う。

作家として対象を言葉で捉えようとし、どこか客観的で他人事のように、妻の死を体験していく幸夫。一方、トラック運転手で身体と感情を剥き出しで妻の死を体験する陽一が対照的に描かれて展開していく。

幸夫は、妻の夏子の懇意にしていた仕事仲間を現地に呼ぶこともなく、葬式では作家らしくもっともらしい言葉を難なく紡ぎ、霊柩車ではバックミラーに映る自分の髪型が気になるような人物として描かれる。

幸夫は、陽一とその子供たちと関わることで、少しづつ、自分の心を言葉という道具だけでなく、身体を動かして理解していく。子どもという言葉だけではままならない、埋められない領域がある対象との関わりによって変わりはじめる。なぜか妻には与えることができなかった、自分の中の良心ややさしさを、子どもたちに向けることで、永い言い訳を作っていくかのように。

西川美和作品は、メタファーとワンカットでいろんなものを表現するシーンたちが最高だと思っている。
・シャボン玉が割れる
・セミが裏返って、羽を懸命にもがいて動かしても、飛び立てない
・ぼやけるクリスマスイルミネーション
・陽一と吃音?トゥレット症候群?で、言葉が詰まってしまう鏑木優子との出会い
・タクシーを拾う場面で、誰にも語れない自分の罪悪感を、陽一に本音でぶつけてしまうシーン

鏑木優子は、言葉を巧みに扱う作家の幸夫のカウンターとして登場しているのだろう。言葉に詰まりながらも、誠実に話そうとする鏑木の存在は、私たちが、どのように言葉を使うべきか提起しているように思える。

また、陽一ひとりだけかもしれないが、自分がやってしまった本当のことを言葉にできたことは、幸夫の小さな救いになったのではないか。

幸夫のように、「本当は大事な相手なのに、なぜかその人の素直な言葉をそのままに受け取れず、疑念を抱いてしまう」とか、「やさしさを向けたいのに、なぜかできない」みたいなことは、大切な人との関係性のなかで、誰しも経験があるのではないだろうか。
私たちは、言語ゲームの中を生きていて、非日常という言語ゲームの亀裂が入って外に出ないと、これまでの日常の意味や大切さが立ち上がらない。そんな存在でもある。だから、幸夫のことが、まったくの人ごとだと思えないのだ。

陽一が、子どもから、父さんのようになりたくないと言われて手をあげ、トラックで中央分離帯を少しづつはみ出しているとき、何が彼の心のなかに渦巻いているだろう。

電車の中で、「人生は他者を」と殴り書きした幸夫は、何を書いただろうか。

久しぶりに妻の職場の仲間の前に顔を出して、妻との関係が始まってから、妻以外に切ってもらったことのない髪を切りに行った幸夫は何を思ったか。

最後に、窓から吹き込んだ風が幸夫を横切り、妻の散髪道具を片付ける幸夫は何を思っただろうか。

ぜひ、この映画を見た人の感想を聞いてみたい。

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