日常から転げ落ちる瞬間を観る。 ~ 舞台 THE BEE ~
今年の5月に初めて野田秀樹さんの舞台を観て、圧倒的なセリフの量と運動量、ラストシーンへ繋がって行く怒涛の流れ、そしてラスト。
ラストは子供の頃にリアルタイムで見た衝撃的な事故を思い出してしまい、強いショックを受けました。
ですが、またも野田秀樹さんの舞台があるとチケットサイト案内のメールが届き、キャストが阿部サダヲさんと長澤まさみさん、そしてフェイクスピアでもお茶目な存在感だった川平慈英さんとあり、迷わずポチリ。
東京芸術劇場はプレイハウスへ何回か行ったことがありましたが、今回は初めてのシアターイースト。
ギュっと詰まったような観劇人数もかなり絞った劇場で、今回のキャストさんを思うと贅沢だと思いました。
自分は舞台に対して一番後ろでしたが、ど真ん中で前席に人のいないVIP的座席でホクホク。一番後ろでも舞台からは相当近い距離感でした。
舞台は天井から舞台全面まで、白い紙が垂れて敷き詰められている状態。
場内が暗くなると自分の左下の足元の扉から遅れて来た人が入って来た・・
と思ったら、サラリーマンのスーツ姿の阿部サダヲさんが颯爽と舞台に向かってスタスタと歩いて行って、そのまま登壇。
阿部さんが舞台中央に立つや否やで長澤さん、川平さん、もうひとりのキャストの河内大和さん扮するテレビリポーターが雪崩れ込んで来て、阿部さんの奥さんと子供のいる自宅に脱獄囚が立てこもっていると聞かされます。
矢継ぎ早に阿部さんへ今の心境や自宅への呼びかけを「強制」します。
舞台の四つ角に柱が立てられて、それぞれから囲うようにゴムパッチンのようなゴムが張り巡らされていて、4人の入れ替わり立ち変わりによってゴムでがんじがらめになったり、解けたり。
その状態から阿部さん以外は警官と警部へ「早変わり」します。
陸上のバトンパスみたいな早変わりが面白かったです。
そこでも警察陣はリポーター達と同じように阿部さんへああしろ、こうしろと「強制」します。
阿部さんが警察やワイドショーのテレビ制作者、さらに立てこもる脱獄囚に翻弄されていく過程で、まさかの脱獄囚の家へ向かいます。
同じ家族構成の奥さんと子供のいる家へ乗り込んで、奥さんに脱獄囚の旦那の説得を依頼するのです。
しかし、残念なことに元ストリッパーの奥さんは脱獄囚の旦那に辟易しているので、協力を断固拒否。
急激な出来事に翻弄され、最後の頼みの綱の脱獄囚の奥さんに拒否されて、阿部さんはブチっと切れちゃいます。自宅前から送って来てくれた「失礼な」警官を撲殺し、拳銃を奪って、まさかの立てこもりを開始。
そこから地獄の様相となる脱獄囚との応酬が始まります。
合間合間に挟まる、視聴率至上主義のお気楽テレビ局や、強引且つ煽っているかのような警察。タイトルの「蜂」の毒が回るように阿部さんが善人から悪人へ転がり堕ちて行きます。
鉛筆が舞台の象徴的なアイテムとして色々な意味で大活躍しますが、その空虚な軽い音が軽い程、ゾっとする響きを感じさせます。鉛筆の先端の芯の部分が蜂の針だとしたら、それが差し向けられる応酬には目を覆いたくなるものがあります。
応酬の最後の方の「脱獄囚のこども」の従順な降伏、脱獄囚の奥さんの諦めと慟哭。
舞台上へは登場して来ない「同じ状況」の脱獄囚と阿部さんの奥さんと子供の描写は、阿部さんの立てこもりの状況と重なって行きます。
救いようの無い「立てこもり」は日を追うごとに世間の関心が薄くなり、それでも、SNS的な世間の目は阿部さん一家と脱獄囚一家へ「美味しく」たかります。
初演は今から15年ほど前なので、当時と世情は変わっているところはあると思います。でも、人の関心や興味を持つ視点、所詮他人事の不幸の蜜などに関して、さらに欲や商売が絡むと当事者は潰されていっても、外野は痛くもかゆくも無く、ただ「出来事」が消費されて、起こった出来事に関しても当事者がいくら煽られてヒートアップさせられていたとしても、外野は何の責任も取りません。せいぜいメディアは「今後留意します」なんて舌を出しながらコメントを出す程度。
「ああ、あの事件の・・」ってテレビ局の実名が出た時は、「ハハっ」っと疲れた笑いが自分から出てしまいました。
前回観劇した「ザ・ドクター」でも思いましたが、テレビ、メディア、いまはそれよりももっと巨大となっているSNSも、同じように攻撃する力はされる側とは比べ物にならないくらい強大に強力です。
転がり始めて「立ち止まる」ことが出来なくなってしまうことが、善人を悪人に変えてしまうし、外野は転がりやすくなるように壁を作って「極悪人への道」を作り上げてしまう、そんな怖さを感じました。
凄いスピード感で阿部さんが「あっち側」へ転がり落とされて、鉛筆もどんどん「ポキっ」と折れて行きます。
つい笑ってしまうシーンがありますが、笑わないことが難しいし、笑ったことが本当は怖いことかもしれません。
それと、舞台装置のひとつの天井から吊り下がっている大きな白い紙。
これの道具としての使われ方、当事者を食い尽くして全部消費されて見えなくなって行くってことなのかな。
舞台が「ギュっと観劇者数を絞った」劇場だった意味が分かりました。
広い劇場では「音」が聞こえないと思うので。
最後の集まる「大きな音」のひとつに自分もならないで生きて行けるのか?
難しい課題だと思いました。