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療育提供者の自己満足と思い込みで療育が提供されているという悲劇(&子どもを伸ばしてくれるセラピストの見分け方を教えます)

療育という閉鎖された世界に風穴を開けたい、という夢に向かって必死に自転車を漕いでいる、療育改革実践家の西村です。

必死に漕いでいますが、強烈な向かい風に、反対向いた方が楽だよな、とつぶやくことしばしばです(笑)。


治外法権な福祉現場

さて、ちょっとひねくれたことを書きますが、福祉の現場は治外法権です。

療育機関もしかり。

そこ(例えば療育機関)で行われていることは、「福祉の現場でやっていることで、間違っていることなんかない!」という思い込みによって成り立っていますし、現場の人々も、そう信じています。

「福祉は施し」はある意味間違いではありませんが、ある意味間違いです。

施しであるためには、サービスを提供する側が成熟している必要がありますが、大抵の療育サービスを提供している人は、ただの労働者。

つまり、労働という価値を提供する代わりに、報酬という対価を得ているだけです。

だから、施しがどんどん本来の福祉から外れていくのですね。

こうなるともう、「◯◯してあげる=施し」みたいな構図になってしまいます。

勝手にやってろ、と思わないでもないのですが、お気の毒なのは、それに巻き込まれてしまっているお子さんと保護者の方です。


自費サービスをやってみれば、本当にするべきことが見えてくるのに

公的機関に限らず、民間機関でもそうです。

医療保険や受給者証を使ってサービスを提供していると、もう自分が何をするべきかを考える必要がなくなるんですよね。

だって、制度を使ったサービスって、「国が【うん、それでいいんだよ】と認めてくれているようなもの」ですからね。

国が認めているサービスを行って、間違っていることなんてあるはずない!という思考にどうしてもなっちゃいますよね。

まあ、誰も気付かない。


そうそう。

先日、発達障害のお子さんへ自費サービスとして療育を提供している作業療法士の方と語り合ったんですが、「自費サービスって、少しでも提供内容に満足してもらえないと、今後利用していただけないということに直結しているだけに、毎回毎回、緊張しながら仕事に向き合いますよね」という話になりました。

自費療育サービスを提供している私としては、100%納得できる話だったのですが、ほとんどのセラピスト(理学療法士や作業療法士・言語聴覚士など)は、制度の中で仕事をしているので、まず気づかない。

気づかないだけならいいんですが、調子に乗ってくるやつが出てくるんですよね。

「俺たちは正義だ!」みたいな、やつ。

もうね、アホか、の世界ですよ。


療育提供側の自己満足と思い込みで、療育の世界はカオス化している

で、療育の提供者が自分を振り返ることができないと、提供しているサービスがこれでいいのか間違っているのかの判断ができず、やがて自己満足になり、いやこれで正しい、という思い込みが激しくなっていきます。

そうやって、どんどんカオス化していきます。


そうなると、楽しくない療育を半ば強制的に受けさせられる子どもはかわいそうです。

我が子に発達の遅れがあるのでは?と不安な保護者は、藁をもつかむ気持ちで療育の扉を叩きます。

そこにいる専門家が、自己満足の塊だったらどうでしょう?

でも違いを教えてくれる人なんていない。

郷に入っては郷に従え、の構図。


だから、「こんなものか」と思うしかない。

でも、何だか釈然としない。

こんなのでいいのかなあ、とふと不安になる。


これが療育の世界がカオス化する理由です。

混沌としたまま、みんな右へならえ!で納得しようとしている。

これじゃあ、療育って楽しくならないよね?

こんなことをただ繰り返しているようでは、療育なんていつまでたっても、楽しくなんてならないですよね。


混沌とした療育の世界に引きずりこまれる前に

混沌とした療育の世界に引きずり込まれないために大切なことは、保護者の方が知識をつけること

もう一度いいます。

正しい知識をつけることです。

それと同時に、今受けている療育が本当に我が子の役に立っているのかを確認することです。

確認の仕方は簡単です。

担当者に、今受けている療育がこの子の生活にどんないい効果をもたらすのか?ということを訪ねてみてください。

「生活の中でこんな効果があります。」あるいは、「こんな生活上のメリットがあります」とスッと答えられる担当者ならOK。

細かい専門的な内容に終始する答えしかできない担当者だと、子どもを伸ばしてくれる担当者ではありません。


要は、生活の中で何らかの改善効果を出せる担当者ならOK。

(注)生活の改善は、何も体が発達することや、言葉が増えることだけではありませんよ。

それができない担当者なら、担当を継続してもらうのはマズイ。

療育は、お子さんと保護者の方の「生活の中で、変化を実感できる」ことがなければ、受けている意味がありません。

ひどいところだと、新人の練習台にさせられてしまうよ

例えば、担当者が右も左も分からない新人のセラピストであったり、しかも新人教育をキチンと行わず、担当者に任せっきりの療育機関もあります(少なくとも私が元いたところはそうでした)。

まあ、分かりやすく言えば、ほったらかし、ね。

それどころか、新人教育の練習場所として、療育機関が存在しているんですよね。

新人セラピストがいます→療育機関に派遣されます→新人の研修を兼ねてお子さんを担当します→指導する人がいない(指導できない仕組み)ので、フィードバックもままならずです→お子さんへの効果があるかないかは問題になりません。

我が子が、新人教育の練習台にさせられてしまい、そして誰もそれに気付かない。

福祉の治外法権によって、反論すらできない。

反論すれば、たちまち「分かってない保護者だ」とレッテルを貼られてしまう。

これはもう悲劇です。


大切な我が子をそんなところに預けて安心できますか?

私なら、内情を知っているだけに、絶対任せたくありません。


だからこそ保護者の方の判断力(選眼力)を高めることが重要になるのです。

さもないと、カオス化された療育システムの中で、大切な我が子をこねくり回されてしまいます。

もし、そうなってしまっているなら、早々にそこから抜け出す方法を考える必要があります。

お子さんのことを一所懸命考えて、色々と実践してくれる保育所の先生や学校の先生のほうが、療育の専門家よりもよっぽど、療育が上手い人がおられます。

そんな方に味方になってもらい、信頼関係のもとでお子さんの特性を伸ばしていくほうが、現実的で効果的です。


判断の基準は、「生活の向上を目指しているかどうか」

重要なPOINTなのでもう一度言います。

今受けている療育が我が子のためになっているかどうかは、受けている療育が「生活の向上につながっているか(またはその見込みがあるか)」で判断します。

療育を提供するセラピストは、専門的な(マニアックな)人が多いので注意が必要です。

生活の向上を具体的に説明できるセラピストなら、概ね安心して任せてもよいと言えます。

「この子の生活にどう影響をもたらせますか?」と質問して、十分に納得できる説明ができないセラピストは、新人セラピストか、専門バカかのどちらかです。

担当者を変えてもらうか、療育先を変えたほうが賢明です。

「でも、悪いから…。」と我慢してしまうと、困るのはお子さんです。


もっとシンプルに考えてみましょう。

一体誰のために、何のために、療育を受けているのか。

我が子が社会の中で、少しでも希望と勇気を持って歩いていける力をつけるため、ですよね?

その本質を見誤らなければ、問題はどこにあるのか、シンプルに答えが見えてくるはずです。


カオス化した療育の世界をうまく渡り歩いて、お子さんの能力を最大限に引き出し、生活の向上を目指しましょう。


私も自分の提供する療育サービスが、独りよがりにならないよう、「お子さんと保護者の方をどれだけ喜ばせることができるかを考えろ」と自分自身を常に戒め、従業員にも日々「対象者の生活を向上させてこそ、本物の療育担当者だ」と伝え実践してもらっています。


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にしむらたけし@超不器用な社長理学療法士
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