わたしの適応障害について。

適応障害。

最近では、よく耳にするワードですよね。

わたしが適応障害と診断されたのは、26歳のとき。

ただ、その頃は自分自身では心も身体もコントロール出来なくなってしまっていて、症状が出始めたのは19歳のとき。

以前、お話をした高校入学時の人間関係トラブル。

そこから、尊敬する彼女に出会ってからも、ネガティブ思考は変わりませんでした。

高校1年生の時、初めてリストカットをしました。

はじめは、何気ないきっかけでした。

お金もない学生にとって、お金をかけずにストレス発散をする方法として思いついたのがリストカットだったのです。

過食して太った自分自身の身体にコンプレックスを抱えていたわたしは、食べることが逆にストレスになっていました。

なので、ご飯をまともに食べることもやめていました。

家の中もぐちゃぐちゃで、自営業だった両親も子どもに関心を向ける余裕もなかったので、基本的にごはんを食べないことに関してうるさく言われることはありませんでした。

お昼は、ジュワシュワする飴をなめて、空腹をごまかす日々。

ただ、その頃から始まったのが睡眠障害でした。

夜中、ふと目が覚めてキッチンに行き、冷蔵庫を漁って何かを食べる。

意識は、なんとなくあるんです。

でもコントロールは出来ない、なんとも不思議な感覚でした。

普通に軽い調理をすることもあります。

一度、それで湯煎をしたままキッチンで眠ってしまい、近くに置いていたタオルが少し燃え、火災報知器が鳴るという事態が起きてしまいました。

当時、まだ両親は離婚していなかったので、父も母も慌ててキッチンにやってきて大激怒。

でも、コントロール出来ないんです。

どんなに怒られても、自分自身ではどうしようも出来ないのです。

母は、そこから「ご飯をちゃんと食べなさい」というようになりました。

それでもわたしは太るのが嫌で、食べないようにしていました。

だからといって、母がお弁当を作ってくれることもなかったので、わたしはひたすら飴生活をしていました。

ストックしてある食パンや、次の日用のご飯だったものを、わたしが夜中に食べてしまい怒られることもしょっちゅうありました。

でも両親は、その事態が普通ではないと思いながらも、怒ることしかしません。

病院に行くなどの提案をすることもありません。

ただ、ひたすら口で怒るのです。

その蓄積により、さらにストレスが溜まっていってしまったのか、リストカットへと繋がりました。

怒られるたびに自分の存在を否定しました。

この家にはいないほうがいいのかもしれない。

邪魔者なのかもしれない。

わたしがいても、お金がかかるだけ。

高校入学時、ちょうど高校無償化になった年だったので、公立高校に受かっただけでも親孝行だなんてよく言われました。

でも、わたしは商業高校だったので、電卓購入や毎年複数の検定代。

制服や体操服など、なんだかんだお金はかかります。

なんのために生きているのだろう。

姉妹で誰よりも勉強しているのに、要領が悪いわたしは、結局半分くらいの順位にしかなれません。

バスケも姉には勝てない。

ピアノも姉には勝てなかった。

何一つ、わたしは姉妹で1番になれなかったのです。

わたしには、なんにもないのです。

ふと、目に入ったカッターナイフ。

たまたま目に入りました。

ふと、切りたい衝動にかられました。

震える右手でカッターナイフを持ち、左手首にそっと当てました。

目をつむり、力強く引きました。

カミソリと違い、思ったよりも切れません。

何度も同じ場所で刃を引きました。

じんわりと滲み出る自分の血を見ると、なんだかほっとしたんです。

わたし、生きてる。

そう感じたことを、今でも鮮明に覚えています。

死にたいわけではない。

でも、苦しい。

この苦しみを軽減するために、その日以降、頻繁に行うようになりました。

その時のわたしの精神状態は、たぶん普通ではなかったので、憧れの彼女に嬉しそうにリストカットをしたという報告をしていました。

いま思えば、その彼女に申し訳ないことをしたなと反省しています。

それでも普通に接してくれていた彼女には、頭が上がりません。

両親は、わたしにあまり関心がなかったので、手首の傷に気付くことはありませんでした。

姉も、年が離れていて社会人だったので、働いていたり彼氏の家に行ったりと、わたしの傷に気付く人はいませんでした。

リストカットをやめられたのは、23歳の時。

ふと、自分自身を傷つけることをやめました。

母親にバレたのは、そこから数年経った頃でした。

ふと、わたしの手首の傷に気付いたんです。

その頃にはやめていたので、わたしは軽く流しました。

母は、わたしの傷を見て「どうしてみんなするんだろう」と言いました。

実は、姉3人ともリストカットをしていました。

心配などではなく、経験者ではない母にとって、純粋に疑問だったのでしょう。

わたし自身も、心配してほしかったわけではないので、なんとも思いませんでした。

リストカットから離脱することは出来ましたが、夜中の夢遊は続いていました。

次第に、母や姉が次の日に持って行くお弁当の中身をバレずにつまむようにもなりました。

もちろん、バレたら大激怒。

でも、どうしようも出来ませんでした。

睡眠外来で泊りがけの検査もしましたが、病院ではぐっすりすぎるほどよく眠れるのです。

眠剤も試しましたが、昼間の眠気がひどく、運転をする仕事だったので飲むのをやめました。

19歳の時、社会人1年目。

入社1年目は営業事務で、大激務でした。

本当に忙しくて、ミスも連発してしまい、そこから帰りの車でパニックになるようになりました。

当時は、まだパニック障害という言葉に聞き馴染みがなく、人に話すことも出来ませんでした。

毎日、過呼吸で泣きながら運転する日々。

顔面麻痺で視界が朦朧とすることもありました。

それでも家に入るときは、普通を保っていました。

家族が気付くことはありません。

とんでもないミスをしてしまったある日。

その日だけは、普通には出来ませんでした。

毎週水曜日だけ家に帰ってきていた姉が、ふと気づきました。

一緒にお風呂に入り、何も聞かず、ただ見守ってくれました。

温かいココアを作ってくれ、髪の毛も乾かしてくれました。

わたしが眠れるまで、ずっとそばにいてくれました。

しつこく聞かれるのが苦手だと分かっているからこそ、ただただそばにいてくれたんだと思います。

次の日の朝、玄関まで行ったわたしは、一歩外に出ることが出来ませんでした。

寝ている母を起こし、「会社に行けない」そう言いました。

それでも説得され、なんとか行きました。

いま思えば、あのとき仕事を辞めるという選択をしなくて良かったと心の底から思っています。

パニックになることは、誰にも言えませんでした。

そこから数年、毎日だったのが1年に数回になった頃。

ある人がきっかけで、ほぼ毎日症状が出るようになりました。

その人についてのおはなしは、また今度。

その人の足音や匂い、声などで症状が出てしまうんです。

それだけでなく、静かな空間にいると「パニックになったらどうしよう」という恐怖から過呼吸になります。

毎週月曜日に行われる朝礼では、いつもトイレに駆け込んでいました。

その頃から、精神科に通うようになりました。

はじめは、いろんな薬を試す日々。

医薬品卸で働いていたわたしは、聞いたことのあるいろんな薬を、2週間ずつ試していました。

気持ち悪いくらいハイテンションになっていたこともありました。

そんなわたしに母は「気持ち悪いくらいテンション高かった」と言いました。

病院に行っていたことを知っていた母。

実の母ですが、「なんて言葉のチョイスが悪いんだ」と思っていました。

でも、気持ちが沈むことから開放されるのは、仕事をするうえでもありがたかったので、投薬は続けていました。

通院を初めて数ヶ月した頃。

いつものように診察をしていたとき、「どうですか?」と聞かれました。

ご経験のある方も多いかと思いますが、やはり月曜日ってしんどいんです。

なにか嫌なことを控えているとか、そういうわけではなくても、どうしても気持ちが沈みパニックになってしまうのです。

突然、涙が溢れて止められないのです。

変わらないわたしの症状だったからなのか、先生は言いました。

「月曜日がしんどいのは、みんな一緒」

分かってる。

わたしだけがしんどいわけじゃないこと。

それでも、それを分かったうえで、自分じゃどうしようもないから病院に通うことを選んだのに。

その瞬間、わたしの中で何かが切れた気がしました。

もう、ここにはわたしの居場所はないんだと。

そこから通院することをやめました。

仕事中に行ける精神科は他になかったので、別の病院に行くことも諦めました。

本当は良くないと分かったいながらも、わたしは残りの薬を、パニックが出たときだけ飲むようにしました。

次回は、原因不明の体調不良に襲われたときのお話をしたいと思います。

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